修行僧でもないのに

今朝浮かんできました。

 

「修行僧でもないのに」

 

修行僧でもないのに、私はヨガや太極拳のレッスンを続けてきました。

修行僧でもないのに、日がな瞑想という行為を続けていた日もありました。

修行僧でもないのに、あの世に想いを馳せる日もありました。

修行僧でもないのに、祈りに身を任せたこともありました。

修行僧でもないのに、覚醒、悟り、解脱の意味を考えたこともありました。

修行僧でもないのに、救済のなんたるかを考えたこともありました。

修行僧でもないのに、殺生の意味を考えたこともありました。

修行僧でもないのに、人を導くその行為を追っかけたこともありました。

 

すべて卒業。

 

私は修行僧ではないから。

 

もしかしたら私の魂は修行僧然として生きる期間を必要としていたのかもしれません。

 

けれどもう十分です。

 

そのサインがきょう届きました。

 

これからの私は「今」を生きるだけ。

「自分」を生きるだけ。

「自分の本質」を生きるだけ。

その中には思わず目をそむけたくなるほどのエゴも含まれているのでしょう。

 

それでいいんだ、それがいいんだ。と強烈なエネルギーと共にメッセージが浮かんできました。

 

修行僧は前世の行いによって今生修行を積んでいるに過ぎないのではないでしょうか。

決して特別に「選ばれし民」というわけではないのではないでしょうか。

 

逆に言えばだれもが選ばれし民のはずではないでしょうか。

 

今生での、自分自身の人生をまっとうするために選ばれた。

 

そこにあるのは役割の違いだけ。

優劣、上下などまるで関係ありません。

序列はないのです。すべての命は平等、フラット。同じ価値。

 

みんな特別でみんな普通。

 

ヒエラルキー意識に浸りたければそれもよし。

そうでなくてもそれでよし。

 

私はただ私をまっとうするためだけにこの世にやってきました。

 

すべての命がそうですね。

 

私自身というパートナーと共に、「今」新たな船出を迎えることができました。

私と同じように「修行僧」でもないのに、「修行僧」という仮面を必要としてきたあなた。

 

仮面はいつでも外せます。

自分が望むそのタイミングで。

その時が最適だということを知っている、自分自身の魂によって。

 

仮面を外しても私たちの「真ん中」は深いところで完璧に受け容れられています。

「絶対大丈夫」という安心感のもとに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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