ここのところ当エッセイを書いても書いてもアップできません。
きのうも「こんな時は」というテーマで今日本が置かれている状況の中で私たちには何ができるのか、何を求められているのか、そんなお話を執筆していましたが、やはりダメでした。
なぜなんだろうと理由を考えていたら。
タイムリーなお話だから書こうとか、人の役に立つかもしれないという「邪念」が入っているものはもうダメ、書くな、ということのようです。少なくとも「今」は。
さて、「こんな時は」何ができるのか、何をしたらいいのか。
私なりに自分の真ん中に向かって問いかけてみました。
すると「私は無力だ」という言葉が浮かんできました。
私は、私たち人間は自然災害の前ではまったく「無力」な存在なのだ、という意識です。
おそらくこれは過去の大きな災害でも人間たちが感じた感情です。
何かできるはず。
いや、何もできない。
その感情のせめぎあいがどんな人の心の中でも起きるということなのかもしれませんね。
近いところでは東日本大震災。
私も被災したうちの一人です。
あの時、私たちは自然の驚異には手も足も出ない存在だということをいやというほど見せつけられたのではないでしょうか。
そして今回の豪雨。
あの映像を東日本大震災の津波の映像と重ね合わせて、改めて「無力感」「非力感」を膨らませている人がたくさんいるのかもしれません。
同時期にタイの少年たちの事故。
こちらも「水」に関係しています。
誰もが母なる水の驚異に比べて、自分の小ささを痛感しているのかもしれません。
そんなことをつらつら考えながら、「自分は無力だ」という意識のエネルギーをずっと感じていました。
すると次にこんな言葉が浮かんできました。
「私は何で生まれて来たのか」
「私はここにいてはいけない人間だ」
「生まれるべき人間ではなかった」
「私が生まれて来たばっかりに地球には不幸な出来事が増える」
「私はここにいてはいけない。ここにいるべきではない」
これもまた感じなければいけないのかしら。
そう思いながらも感じました、感じつくしました。
すると今度は
「離れてごめんなさい」
「分離してごめんなさい」
「あなたの元を去ってごめんなさい」
「あなたを見捨ててごめんなさい」
という言葉が浮かんできました。
どうやら大いなる源に対して、あなたのそばを離れて一人でこんなところに来てしまってごめんなさい、本当にごめんなさい、という思いを抱いているようです。
なんなんだろう、この感覚は ?
どうやら私は受肉の瞬間に意識が戻っているようです。
つまり肉体として生を授かった瞬間の記憶。
それまで私は大いなる源の一部としてあちらの世界にいました。
あちらの世界では「優劣」や「善悪」の判断やその意識はまったく感じられず、すべてが無条件に愛されている、というこちらの世界とは真逆の価値観があると言われています。
受肉の瞬間、私たちは「エゴ」を授かります。
赤ちゃんには「エゴ」はない。
そうなんでしょうか。
実は私たちは「受肉」の瞬間からすべてを理解していて、ただその表現が上手にできないだけではないでしょうか。
学術的にどうの、ということはわかりません。
ただ私は個人的に、お腹にいる赤ちゃんは100%「カミ」と繋がっているので安心・安全の中で生まれてくる、という考え方に疑問を感じていました。
受肉の瞬間、そしてその直後、母となる女性の意識とジョイントして、その女性の「恐怖」や「不安」を克明に記憶してしまうはずだ、とそう感じていたのです。
そもそも受肉の瞬間、私たちは「カルマ」を抱えた「個」として生を授かっているのではないでしょうか。
それともどんな命も「カミ」としてまったく同じ要素で構成される道筋をたどるのでしょうか。
そんな、考えても仕方のないことが頭になんとなく浮かんで来ていて、おそらく、なんですが、あちらの世界とこちらの世界は価値観が真逆になる場合がほとんど。
あちらの世界でカミと契約し、「行ってきます。楽しい人生を体験します」と喜びに満ち溢れてカミの元を「旅立つ」のに、受肉の瞬間にはその記憶をすべて忘れてしまっていて、完全に意識が反転してしまうのではないかとそう感じました。
するとツジツマが合うんです、カミに対して分離してごめんなさいとか見捨ててごめんなさいと謝っている感覚のすべてが。
とここまで書いていたら、画面がいきなり別画面に飛びました。
「YES」のサインです。少なくとも私の記憶としてはそれが事実だ、ということのようです。
そっか、大いなる源を見捨ててごめんなさいと感じているのか、なんとも傲慢というか 笑、もうわけのわかんない感覚だ。
私個人の感覚なのか、それとも集合想念なのか、本当にわけわかんない状態です。
パソコンの前でそんなことを感じているのにも疲れてしまってベッドに横になりました。
ヨガでいう「屍のポーズ」。そう死体のポーズです。
100%弛緩の状態と言われていますが、実際ヨガ・レッスンの時はそれを体感することはほとんどできません。
きょうは、あれ ? 力が抜けてる。
しばらくすると誰かが頬を撫でてくれています。
そしてハートを優しく包み込んでくれています。
ふわっと、けれど確かに。
そして太陽神経叢という胃の奥あたりにある「チャクラ」という場所に光が灯されるのを感じます。
「おめでとう。生まれて来て良かったね」
「おめでとう。あなたが生まれて来てくれてみんな幸せだよ」
「おめでとう。ありがとう。ここに生まれて来てくれて」
「おめでとう。あなたという存在のお蔭でみんなが幸せになれるよ」
そんな祝福のメッセージが次から次に浮かんできます。
どうやら、私はもう一度生まれてしまったようなのです。
自分で自分を出産してしまったみたい。
確かこの感覚は「リバーシング」と言ってセラピーの手法として再誕生という機会を体験することで幼児期などのトラウマを解消する目的がある施術の一つなのではないかと。
バクっとした記憶です、確かめてもいないので情報としてはかなりあいまいですが。
軽い瞑想と呼吸法でどうやら自分自身の「再誕生」にたどりついてしまったようです。もしかしたら受肉から誕生までの記憶を一瞬にして書き換えてしまったのかもしれません。
おそらくなんですが、私は母が私の誕生に大きな不安を抱いていたのではないかと感じています。
母はすでに他界していますので確認のしようはありませんけど。
母自身が自分の存在をきちんと受け容れられなくて。
母は若い時に両親と兄弟を突然喪うという体験をしていました。
その体験を通じて母は生きていくことは大変孤独で大変なことだ、と学習したに違いありません。
その記憶は母の体内に確固たるものとして息づいていたはず。
子供を出産するということは母にとっては「脅威」でしかなかったのではないかと、最近やっと母の気持ちが少しだけ視えて来たような気がします。
その「脅威」の前で母は自分の無力感を募らせていたのかもしれません。
母の無力感はそのまま私の意識の中に生き続け、私は何かあると「私には力が及ばない。私には何もできない。私なんて生きる価値がない」と罪悪感と孤独感を膨らませていたのだ、と。その「脅威」に対して必要以上に恐怖を募らせていたのです。
もちろんこれは顕在意識ではなく、潜在意識の部分です。
つまり、私は自分自身の意識では「無力だ」「非力だ」と感じることはほとんどなかったということです。
ところが自然災害が起こると、その潜在意識の奥に潜んでいるだろう「無力感」が頭をもたげて、なんとも気分が重くなるのではないでしょうか。
今回もスタートは自然災害に対しての自分自身の無力感でした。
自然という脅威に対する恐怖心。
自然に対する畏敬の念。
表裏一体です。
私たちはもしかしたら、この世での「脅威」に対する恐怖心をいつも心に抱いているのかもしれません。
その恐怖心そのものに対して畏敬の念を抱けた時に、それは自分自身への「畏敬の念」へと姿を変えてくれるものなのかもしれません。
脅威や恐怖を排除しない。
脅威や恐怖心も私たちの中に眠る大いなる可能性なのかもしれませんから。
地球とは私たちにとっては「母なる存在」です。
その地球が奏でる心の旋律は私たちに根源的に必要なものを想い出させてくれるものなのかもしれないですね。