やっぱり今のところこれが一番私らしいのかな、私はスーパーエゴのかたまりだ、ということ。
ここのところ、少しだけ宗教の情報に遭遇する機会も増えて、またニューエイジ系やスピリチュアル系の情報も私なりに探ってみたけれど、どうしても「エゴ」を感じてしまうんです、その教え、教義、ポリシーみたいなものの中に。
なぜなんだろう、なぜなんだろうとずっと思っていたんですがどうやらこういうことみたいです。
宗教って、といってももちろんすべてを理解できているわけではないけれど、みんな人間性、人間としてのエゴを否定していませんか。
否定まではいかなくても。
例えば性欲の否定とか。
人間だから性欲はあって当たり前。
それを否定するって人間であることの否定に繋がらないのかな、と感じました。
あるいは宗教ではなくても「解脱」とか「仙人思想」とか。
みんなあるがままの人間じゃだめだよ、と言っているように感じるのは私の理解が足らないからなんでしょうか。
精神性の方が肉体・物質より価値が上、という概念。
そもそもここが理解できません。
確かに肉体・物質の方が精神より波動は重いとされているけれど、でも肉体・物質と精神と価値が違うんでしょうか。
そもそも自分の中の何かに「優劣」をつけていることがわからない。
と考えていたら、やっと私なりに私の求めている今の答えが見えてきたんです。
あ、私は肉体も精神も魂も同列での三位一体と考えているけれど、そもそも他の人はそう考えていないのかもしれない。
人の価値観、人生の課題はそれぞれだから、求めるものも違ってあたりまえ。
私は私の考え方でいいんだな、と思いました。
私の考え方を他の方に押し付ける気はないけれど、だからと言って他のどなたかの意見に迎合する必要もないな。
それが現時点での私の求めていた一つの答えです。
私たち人間のモチベーションってそもそもそれ自体が「エゴ」なのではないでしょうか。
愛とか無私とか言葉ではわかるけれど、「これは愛です、無私です」と言っている時点で十分エゴなんじゃないかと感じたのです、私は、という意味で。
愛の人とか無私の人とか言われているいわゆる「聖人」の域に達しているらしい方に関しても、私は「この方のここってエゴじゃないの ? 」と感じてしまうんです。
それはもう私にエゴが染みついちゃって、決してなくならない私の一部だから、だと思いました。
肉体があればエゴがあるのは当たり前。
たとえ「解脱」というような状態にたどり着いたとしてもエゴがゼロになることはないのではないでしょうか。
というようなことをずっと思って来たけれど、私はスーパーエゴでいいや、というところに落ち着きました。
スーパーがついちゃうと問題がある時は、自分で少し抑え気味にして。
けれど抑圧していれば絶対に爆発してしまうはずだから、自分のハートに忠実に。が今の私にできるベストなのかもしれません。
私たちの意識の奥の奥には社会的通念という集合意識がじっと息をひそめて、けれどかなり力をもってそこに存在しています。
これは今の時代の社会通念だけではなく、それこそ、人間が創られた時代からの社会通念が含まれていると言っても言い過ぎではないはず。
私たちはたまたま今生では今の国籍、人種、性別などをもって生きているけれど、その意識体の奥には大昔からの別の人の価値観ともいうべきものが息づいているんです。
そう考えるといくら個人レベルで愛とか無私とか言ったって、エゴが自分の中にゼロということはあり得ないということにならないでしょうか。
誰のエゴがわからないエゴでも自分のエゴとして浮かび上がって、何かの言動のモチベーションに繋がるのではないでしょうか。
エゴは一生なくならないもの。
だからエゴを抑圧して生きてもよけいエゴに力を与えてしまいます。
エゴを認め、受け容れる。
エゴと上手に付き合う。
エゴと共に人生を楽しむ。
けれどあまりにもエゴに主張させ過ぎない。
人間である私にはそれしかできないし、それでいいんだ、それがいいんだ、と思いました。
もしもまた何かうまい具合に進める「モノ」が見つかったらその時は遠慮なく 笑 方向転換しちゃいます。
こう書いているこの文章そのものだってエゴが絡んでいますものね。
でもきっとそれが生きる、ということの意味なのかもしれませんから。