私は自己肯定力がメチャクチャ低いということに気づきました。
一年半前のことです。
実はそれまで自覚はありませんでした。
カウンセリングをさせてもらっている時にふと「この方のこの課題、もしかして私自身の課題でもあるのかも」と感じたのがキッカケです。
そこからトコトン自分に向き合い、自己否定を一つずつ認め、受け容れ、なんとかトントン ! ぐらいにたどり着けたのがつい最近のこと。
では逆にどの地点で私は自己否定に力を与えてしまったのだろう、と考えてみました。
私の自己否定は私の魂の選択です。
スタート地点は、母の胎内にいる時から。
このことに気づいた時、正直ゾッとしました 笑。
なんて自虐的な魂なんだ、と。
けれどその大きな局面は、おそらく社会人になってからです。
社会人になってはじめて、私はイジメられる体験をしました。
同期の女性に仲間外れというイジメ、陰口というイジメ、無視というイジメ。
まぁ、子供みたいな典型的なイジメの対象にされました。
同時期に一目ぼれをした男性がいて、私は叶わぬ恋心を5年間くらい抱き続けていました。
元カレの友達です。
けれどその人に出逢った時、すでに元カレとは別れていたのです。
ただし、元カレが紹介してくれたような出逢いでした。
自分で言うのもなんですが、多分私の一生の中で一番「美」に近かった年齢の時ではないでしょうか。
それなのに一度も振り向いてもらえなかった。哀しかったです、人生初の挫折でした、今思うと。
その後、私は会社を辞めてフリーランスで活動を始めたのですが、父がうつ病を発症してしまい、私も睡眠薬や精神安定剤などの服用をしないと、とてもいられないような状態に陥りました。
父の主治医の先生によると、親子癒着というか、父と私の波動はかなり近く、父の精神の影響をモロに受けてしまっているとのことでした。
そんな中で、私は突然の意識不明で倒れ、集中治療室に運ばれるという経験をしています。
この時、母は「覚悟してください」と医師に言われたそうです。
昏睡状態が何日か続き、やっと目を覚まし、その後徹底的に検査をしましたが、身体的にはどこも悪いところはなく、結果「パニック障害」の診断を受けました。
う~~ん、こうやって振り返るとかなり「タフ」な人生でしたね、わがごとながら。
私の体調が安定したのは、一旦すべての仕事を辞めて徹底的に休暇を取り、その後雑誌の編集の仕事につき、そこで出逢った主人と数年後、結婚してのことでした。お蔭さまで「パニック障害」は期間限定でした。
もちろんそれ以降も人生の波乱万丈は続くんですけれど。
ただ、今、この過去を振り返って、ああ、そうだったのか、とものすごく納得している自分がいます。
私は自己肯定という、誰にでも備わっている素晴らしい力をこの心身魂で証明するために、自己否定というツールを活用しまくったのだな、と。
逆にこれだけの自己否定を感じても、なんとか今まで生きていられるということは、結構強い心身をいただいたのではないかと感じたのです。
もちろん途中で病気もしましたけど。
自己否定というツールがあったからこその自己肯定。
自己肯定が高まってくると、自尊感情も高まってきます。
まだまだフラフラしているのは本当ですが、なんか良い塩梅というのが少しだけ視えてきました。
なぜこんなお話をしているかというと、人は変われるし、そういう力をちゃんと携えてもらっている、ということをお伝えしたかったからです。
安心して、大丈夫だから。
すごく深いところで絶対的に受け容れてもらえているから。
そのことだけお伝えしたいからなんでしょうね。
人は誰しも弱いもの。
その弱さから逃げないようにすることには確かに痛みを伴います。
時に壮絶な痛みです。
でもその痛みでは死なない、ということもわかりました。
私には味方がいます。
愛犬・華実と愛猫・海・うみ、そして主人。
たとえ私がひとりぼっちになったとしても、彼らだけは絶対に一緒にいてくれる。
もちろんそれが未来永劫続くものではないことはわかっています。
けれど、今この瞬間、そう感じられる、そのことだけで私は「大丈夫」と思えるようになりました。
主人と私は真逆の性格で、言い合い、ケンカなんてしょっちゅうです。
でも「イエスマン」の主人でなくてよかった。
私も主人にとって「イエスマン」の妻でなくてよかった。
そのことに今朝気づきました。
もちろん「イエスマン」にも敬意を表して。
私たちの関係においては、という意味です。
主人に「あなたのことは100%好きではないけれど、でも一緒にいられて良かった」と伝えました。
「聞き捨てならないね」と主人はカチンときた様子でしたが、それでも今の本心を伝えられてよかった。
私は「良い子」として自分を抑圧する生き方をずうっとしてきたから。
やっとそんなことはもうしなくていいんだ、と気づけたから。
「良い子」の仮面を外すことは誰にでもできます。
もちろんあなたにも。
自分自身で「外す」と決めればよいだけ。
そのためにはまず自分が「良い子」であることを認め、受け容れること。
それは決して本当の自分ではないことを認め、受け容れる。
そこがスタートです。
「良い子」の一生を選択してきた魂もあるかもしれません。
けれど「良い子」は時に重篤な病気を発症する可能性がある、ということが諸外国の医療の現場ではわかっているとのこと。
つまり「抑圧」のエネルギーが身体を攻撃しはじめのです。
日本では心理療法士の方がそういう説を唱えているかもしれません。
ただし、一般的認知は進んでいません。
心と身体の関係を指摘する医療従事者はまだまだ少ないのが現状です。
ハートに何か響いた方は、ご自分で「良い子」の仮面を外す時が来ているのかもしれません。
もちろん病気の中にも学びの種はあります。
けれど病気以外のところにもたくさんの学びの種があります。
どちらを選択してもあなたはあなた。
私は私。
それ以上でもそれ以下でもありませんよね、お互いに尊い命です。
当エッセイを執筆している途中で、急に画面が変わり、パソコンがフリーズ状態に。
またも「YES ! 」のサインです。
重いテーマ、一見ネガティブなテーマのことを書くとたいていどなたかが「YES ! 」と拍手喝采をしてくれるみたい。
私の両親、兄はすでに他界しています。もしかして、家族そろっての応援でしょうか。
そう、どんな状況になっても、私たちは孤立しないのです、できないのです。
そう創られているのです。すべての命が何らかと繋がって存在するように。
だから、大丈夫、なんです、どんな時も。
自己肯定力はすべての命に平等に与えられている宇宙の叡智です。
特別な道具はいりません。
誰にでもスイッチを入れられます。
自分の意識、というスイッチです。
それでもなかなかうまくいかない時もあるけれど。