きのうのテレビ・ドラマ『ブラックペアン』。
ご覧になってない方には申し訳ないですけど。
医療ドラマです。
今までは大学病院の「ドロドロ」と主演の天才医師の執拗なまでの憎しみの投影などに目が行って、心底スカッとするというタイプのものではありませんでした。
私はあまり医療ドラマは好きではありません。なぜなら、医師至上主義みたいな視点がどうもな、と感じていたから。
それでも『ブラックペアン』を観続けていたのは、きのうのラストの展開を「視る」ためだったようです。
教授は自分に憎しみを抱かせてまでも、主人公の医師を「天才」医師と呼ばれるまでに成長させます。
主人公の医師は自分の父親に医療過誤の罪を背負わせたと、教授を恨み続けます。憎み続けます。
ただその復讐のためだけに教授の元で、そのチャンスを狙って。
主人公の医師のモチベーションは教授に対する憎しみ、それをはらすための「復讐」という執念。
そして父親への「たぶん」ゆがんだ愛。
けれどその「憎しみ」「復讐劇」すべて教授がその医師を成長させるためのシナリオだったのです。
教授の、そのシナリオ、自分が悪役を買って出て、その実、医師を天才医師にまで成長させる。
これって私たちの人生のシナリオと酷似していないでしょうか。
私たちの魂は、この世に肉体として生まれる前にその人生のストーリーを自分自身で設定する、と言われています。
そのストーリーがうまく展開するようにキャスティングもすべて決めて。
その配役をしてくれる魂に事前にお願いをして。
けれど肉体を授かった時点で私たちはその事実をすべて忘れてしまう。
そして人間同士の愛憎劇が展開されるわけです。
自分にダイレクトに愛を向けてくれるキャスト。
自分にネガティブな感情を抱かせるキャスト。
けれどそれはその実、自分の魂を成長させるために事前に自分が仕込んだ魂のパートナーだったのです。
精神世界の伝統でいうと、この話が定説です。
けれどいくら頭で理解できても私たちは心の底からそれを理解することは難しく、どうしても自分を攻撃する相手に怒りを感じ、それが憎しみや恨みにまで発展し、同時に怒りや憎しみや恨みの感情を抱く自分までも攻撃する。
すべてが「愛」だと思っていてもなかなかそれが腑に落ちない、納得できない。
それが私たち人間の常ではないでしょうか。
きのうの『ブラックペアン』のラストでは、まるで天国に還った私たちが人生のストーリーの種明かしをされるかのような愛あふれる告白がなされました。
大感動。
そっか、やっぱりそうだったんだ。
私たちは時に人を憎みます。
一方誰かに恨みを買い、憎み続けられることもあるかもしれません。自分ではそう意図しなかったつもりでも。
けれどそれはすべて「大元」の何かの「愛」とラインが繋がった上での愛憎劇に他なりません。
それ以上でもそれ以下でもない。
キャストとして現れてくれた人たち。
キャストとして人の人生ドラマに出演させてもらっている私たち自身。
その、すべてのシーンから「愛」に繋がる、目に視えないけれど確かな何かが存在する。
このことだったんですね、すべてはひとつの意味は。
私たちは誰かの役に立ちたいとか、誰かを幸せにしたいとか、もちろん自分自身が幸せを感じたくて、様々なことを願いながら毎日を生きています。
時にそれが自分の思惑通りに行かなくても、むしろ思い通りになんか行かないことの方が多くて、
私たちは悩み、苦しみ続けます。
けれどすべて「大丈夫」だったんだ。
すべてシナリオ通りだったんだ。
すべてのシーンの煌き一つ一つが愛の顕現化だったんだ。
たとえそう感じられなくても、そう感じられないという体験をしているだけなんだ。
現実から目を背けません。
怒りや苦しみからも逃げません。
なぜならそのすべてが「愛」という名の光だから。
一見「闇」も。
「愛」という言葉を使うとうわっついた感じになるのは、私たちがまだ真実の愛を肌で感じるところには至ってないからなのかもしれません。
ここでの愛は言葉でいうのなら「絶対愛」なのでしょう、「相対愛」ではなく。
憎しみも恨みも、すべて成長の糧。
人生の糧。
自分の人生を美化するのではなく偽るのではなく等身大で生きていく。
それが私たちすべての命に与えられた、平等で公平な人生の意味なのではないでしょうか。
スイッチが入りました、突然。
リアルに生きていこう、と。
そのリアルは人から視ればリアルでないこともあるかもしれません。
けれどそれを感じることが自分の役割なら、そこを突き進むしかない。
自分の感覚が一番です。
優劣の一番ではなく、自分にとってのベスト。
ベストとベストのぶつかり合い、時にせめぎ合い。
そこに愛の火花が花開くのですね、一瞬の、まばゆいほどの煌きを放って。
その煌きは唯一無二。
一つとして同じ煌きはこの世には存在しない。
私はどちらかというと「綺麗ごと」の世界を優先させて生きて来たタイプです。
ここ数カ月でそれが反転し、自分のドロドロを感じつくそう、絶対に逃げない、とそう心に決めて毎日を送るようにしています。
苦しいんです、気持ち悪いんです、自分のドロドロを感じる、というのは。
けれどそれがない人生はとても「上っ面」でとてもゆがんだものだと気づきました。さらにどんなに不快感を感じても人間はそう簡単には死にません。死んでしまうと感じるほどの不快感だったとしてもたいていの場合それは「思い込み」です。
当エッセイを書いた後でもきっと私は右往左往しながら、人間的感情と上手に付き合えなくてイライラしながら、アップダウンを繰り返しながら、なかなかゴールにたどり着けないもどかしさをまるで呪うかのように生きていくのでしょう。
それでもいいんだ、ということがストンと腑に落ちました。
それがいいんだ。