当エッセイは2018/06/23にほぼ書き終えていましたがアップは翌日2018/06/24となりました。
こういう時の文章ってあまりスッキリしていないのが特徴です。おそらく、心のねじれを元に戻そうとする瞬間の何らかの力が文章の読みにくさとなってあらわれるのではないかと感じています。
逆に言うと、ものすごい圧力、良い意味でのが、かかっての執筆なので、エネルギーはかなり強くなっていると思います。
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等身大、等身大、等身大。
きょうは朝から何回もこの言葉が浮かんできました。
先ほど短めの瞑想をしていたら、なんと、身体からよろいかぶとがはがされる感覚を味わいました。
ここ数日、身体から何かが抜けていくというか、逆に身体の周りから何かがはがれていく感覚を何度か味わっています。
最初の感覚はまさに脱皮。
さなぎが蝶へという表現がありますが、多分そんなことなんだろうと感じていました。
きょうはその感覚がもっとリアルでベリベリと音を立てて甲冑のようなものが外れていく感じがしました。よろいかぶとと言うと日本のものを思い浮かべますが、外れていく感覚はなんとなく中世の騎士団のもののようでした。
同時に「誇大妄想」という単語がフワフワフワと浮かび上がってきたのです。
誇大妄想というのは被害妄想と表裏一体。
と思っていましたが念のため調べてみたら被害妄想ではなく、どうやら微小妄想というようです。
どちらも「妄想」です、自分自身をものすごく大きく感じたり、一方自分を卑下して自分サイズを味わえない感覚。
私は山と谷の法則を信じていて、山が大きければ谷もまた大きいと感じるタイプです。
実は誇大妄想にしろ、微小妄想にしろ、割と一般的に人々の心の中に起きているんじゃないかとそう感じています。
あまりにも顕著になった場合は要注意ですが、妄想癖レベルはごく普通に起きているものかもしれませんね。
私は元々どちらかというとアップダウンの大きい方です。最近はその振幅の幅もずいぶんと小さくなってきていましたが特に意識しなければアップダウン、あるいはポジティブとネガティブのような感覚で捉えていましたし、少しだけ心理学用語などがわかって来たので、今回はまさに誇大妄想と微小妄想の感覚なんだろうな、と感じたというところでしょうか。
いずれにしても「誇大妄想」のよろいかぶとが外れたということは「微小妄想」のよろいかぶとが外れたということでもあるわけで、アップダウンがゼロになったわけではないけれど、必要以上に「妄想」に走ることはなくなるのではないかと、そんな気がしています。
妄想ってある意味「現実逃避」のあらわれなのかもしれません。もちろん心を守る意味で現実逃避が必要になることもありますから、「悪い」という意味ではありません。安全装置の一つですから。
実際には現実を受け容れられない弱い心が「妄想」を膨らませるわけですよね。
だとすると現実を受け容れられない弱い心そのものが少し強くなったよ、というサインなのかな、と感じたりもしています。
心の弱い人は「魔法の杖」を使って自分の大きさを等身大以上に見せようとします。逆に気持ちが落ち込みすぎていると、「魔法の杖」を使って自分の大きさをより小さく見せようとするのではないでしょうか。
この「魔法の杖」の代表的なものがスピリチュアルではないかと、そのことをずっと考えていました。
スピリチュアルがいけないという意味ではなく、私も含めて心の弱い人にとってスピリチュアルは本当に便利な魔法の杖になり得る、という意味です。
私は10年くらい前からスピリチュアルの世界を楽しんでいました。それまではどちらかというと否定的に捉えていた方ですが。
ところが、ここ一年くらい、何かがしっくり感じられなくなってきて、つい二か月くらい前でしょうか、わが家にあるスピリチュアル、ニューエイジ系の書籍をすべて処分したところ。
排除ではなく、今の自分には必要なくなったような気がしたからです。
ツール類も手元には残していません。
唯一と言えるのが毎日の瞑想習慣です。
瞑想をスピリチュアルの手法の一つと捉えるかどうかは人それぞれだと思いますけど。そもそも瞑想は「する」ものではなくその状態を意味する言葉ですものね。
何回かお話しているように、私は「スピリチュアル」と言うより「スピリチュアリティ」という言葉の方がしっくりくると感じているタイプです。
神秘体験もかなり経験してきましたが、実は神秘体験そのものは私の感じる「スピリチュアリティ」とは少し違うな、とも感じています。
この辺はまったく好みの問題でどちらが正しいとかどちらがあやまりだとか、そういう意味ではありません。
一般的に「スピ」と言われる今風スピリチュアルは、前はとても魅力的だったけれど今は私の興味の範疇からは外れていった、という感じが一番近いのかもしれません。
ところが瞑想をしていると、神秘体験みたいなものは多く感じられ、きょうのよろいかぶとが外れる感覚などはそれほど珍しいことではありません。
顕在意識では「卒業」と感じていても潜在意識のどこかに「スピ」「ニューエイジ」の何かが残っているのかもしれません。
と少し脱線しましたが、どうやら「妄想癖」はもういらないよ、というサインが誇大妄想というよろいかぶとの取り外し感覚によってあらわされたようです。
自分を必要以上に大きく見せる必要はありません。
自分を美化する必要もありません。
同時に自分を必要以上に卑下する必要もありません。
自分を矮小化する必要もありません。
だから「等身大」。
まったくの自分サイズ、ありのままの自分でいて平気だよ、安全だよと、やっと心の真ん中からのOK ! が出された気分です。
ここ数日、ものすごい勢いで当エッセイを書かされていたので、何かあるな、とは感じていました。
夏至前後の数日、珍しく体調のアップダウンも大きくて、何かがくるぞ、と。
多分このことなんでしょうね。
等身大で生きられるということは、自尊感情も育まれて、自己否定より自己肯定が大きくなったよ、ということなのかもしれません。
これを読んでくださっているどなたかにとっても雨上がりの予感かもしれないですね。
等身大で地に足付けて、あるがままの人生を大いに楽しむ。
誰もがそんな感覚に包まれる日が近いのかもしれません。
長い、長い、長すぎ 笑。私の場合はかなりの寄り道をしてしまったけれど、場合によってはものすごい早さで進めるのではないでしょうか。
早いのも魅力、寄り道派もまた同じだけの煌きがあるのでしょう。
さて、あなたはどちらでしょう。どちらの道だったとしても思う存分毎瞬を楽しみましょう。
競争ではないですから。
方向違いもありませんから。
すべては私たち自身の「ベスト」だとそう確信していて大丈夫です。
ベストしか起こらないようになっています。
そう。そういうことみたいです。
私は知らないうちに頑張って頑張って頑張っているタイプでした。
今思うとそれは等身大の私に自信がなかったから。
私の心が弱かったことの何よりもの証拠です。
今でも完璧に強くなったという意味ではありません。
ほんの少しだけ心にゆとりができた程度。
今後それがどんな風に変わってくれるのか、ものすごく楽しみです。
「悪いようにはしないよ」
そんな等身大ちゃんの声が聴こえてくる気がします。