自分のことながらいろいろなことが「出てくる」なぁ、と思います。
今朝は「クソ忌々しい」という言葉が浮かんできました。
ここ一週間くらい下痢とまでは行かないのですが、軟便傾向、きょうにいたってはほとんど何も出ません、白い液体のようなもの、水様便でしょうか、それが少し出るだけ。
下痢は浄化のサインなので、ここ一週間ほど別に気にしていませんでした。
けれどきょうの「クソ忌々しい」というメッセージには興味がわいたので、少し考えてみました。
クソ、が忌々しいのか、忌々しいに強調の「クソ」がついているのか。
すると「ご不浄」という言葉が浮かんできました。
最近は滅多に使われなくなったトイレをあらわす言葉です。
ご不浄 ?
清浄の反対。
清浄の反対 ?
もしかして穢れ ?
意味を調べてみて納得。
穢れとは忌々しく思われる不浄な状態、の意味なんだとか。
つまり。
私は自分自身をクソ忌々しい存在だと感じていたのではないでしょうか。
集合意識にも繋がりそうですね、自分自身をクソ忌々しい穢れた状態だ、と感じている
多くの人たちの集合想念です。
ちなみに神道などでは穢れとは氣が枯れている状態をいうのであって一般的に使われている「穢れ」とは意味が異なる、としている場合もあるようですが、一般にトイレは「不浄」、つまり「清浄ではないある意味忌々しいもの」と受け取られているのは確かでしょう。
いつものことなんですが、なんか切なくて、でもすごく愛おしい存在だと思いませんか、私たちって。
こんな大切なこと、まったく自覚のないまま生きていて、「自分は忌々しい」「自分なんて」「自分は価値がない」という思いを感じたくなくて、「人に愛されたい」「人に認めてもらいたい」「社会的に認めてもらいたい」と必死に生き続けているんですもの。
一般的に消化器系のトラブルは自己否定の強さをあらわしているとされています。
私の場合、普段はほとんど下痢も便秘もないんです、ただ何かのターニング・ポイントに来るとたまぁに下痢になります。ただし、たいていの場合すぐ治ってしまうので気に留めることもないんですが、今回はちょっと長いし、きょうの白い液体みたいなものは絶対メッセージがある、と思ったら、なんと上のようなストーリーと繋がりました。
白い液体、まさに「クリア」のサインではないでしょうか。
症状があらわれた時は、それに関わる一連の作業が終了したよ、という意味なんだとか。
後はその作業に託された潜在意識を自分なりに受け容れれば完了。症状そのものが治癒に向かいます。
ちなみに下痢は恐れの感情とも強く関係しています。ストレスを感じた時、下痢になりやすいのはそのためです。
また自己肯定感の低さから自分の心に壁を作って、本当の自分を知られないようにすることによって下痢が起こります。
別の視方をすると、自分自身の心をのぞくことにも強い恐怖があって、自分自身を取り繕うタイプにあらわれるのが頻繁な下痢症状です。
当エッセイで何回かお話していますが私は自覚なし、でしたがメチャクチャ自己否定の強い気質の人間です。
なんとか自己肯定力を高めようと、ここ数カ月自分の闇、陰、影に向き合い続けてきました。
そのお蔭なんでしょうか、やっと私自身の本心「クソ忌々しいヤツ」という自己像を潜在意識が手放してくれて同時に白い液体で「クリア」のサインを送り届けてくれたのかもしれません。
さらにおまけ。
私はどうも「クソ」を良くはないものだと思っているようです。
これは誰でも同じかもしれませんね。たいていの人は「クソ=便」を汚いものと思っているのではないでしょうか。
けれど実は便は、私たちの腸の状況を明確に教えてくれる健康のバロメーターともいうべき存在です。
腸と脳は相関関係にあることから、腸の状態が悪いということは脳の状態も悪い、ということです。
便によって腸だけではなく脳の健康状態を知ることもできるんです。
まして便が出なければ、体内に毒素が回ってしまうことにも繋がりかねません。
便秘です。ちなみに便秘は「頑固」で手放しの苦手な人にあらわれやすい症状です。
便秘を治せばガンが良くなる、としているお医者さんもいるくらい。
つまり「便」には大きな役割があり、その役割によって私たちは自分の心や身体の状態を知ることができるわけですね。
私の「クソ忌々しい」という感情はもしかしたら「クソが忌々しい」と感じている側面もあるのではないでしょうか。
それが「ご不浄」という言葉に繋がります。
言葉遊びのようですが、かなり大きな課題が一つ「クリア」された気分です。
一昨日のエッセイで「知らない内に鳥君のうんこが傘についていた。運を付けてもらえた」という主旨のお話をしました。
うんこを運にイメージ付けたことでクソが忌々しいと感じるその思考のクセを相殺してくれました。
私たち日本人は無意識のうちに潜在意識に穢れ意識を植え付けられています
女性の生理、出産などもすべて「穢れ」の一つとして捉えられています。
「穢れ」が神道の意味する「氣枯れ」の意味だったとしても、「不浄」としての価値観がそれよりも強く奥深くに根付いているのも事実。
神道ではありませんが風水の考え方だと、神様の通り道に「ご不浄」は配してはいけないとしているそうです。
すでにここで「トイレ」「便・尿」などは神様にふさわしくない、とされているんですね。
神様にふさわしくないもの、それが「不浄」であり「穢れ」であり、ということでしょうか。
だとすると「穢れ意識」を持っている人はすべて「自分は神様に愛されるにふさわしくない人間だ」と低い自己像を抱き続けてしまいます。
そのために頻繁に下痢や便秘になる。
私自身もまたその一人でした。頻繁、ではありませんでしたが。
神様が存在するとして、その神様がどんな存在であるかは別にして、神様が私たち人間を分け隔てするのでしょうか、「氣の枯れた人間は私に愛される価値はない」と。
それは人間の「恐れ」の感情の投影に他ならないのではないでしょうか。
神様の意識ではなく。
もしも神様という存在があるとして、私たち人間を分け隔てする存在なら、神様は私たち人間と大差はないですね。
逆に神様は決して分隔てしないという存在なら、「穢れ」意識はある特定の人の方便になるのではないでしょうか。
このように「穢れ」意識によって、私たちはさまさまな気づきを感じることができるのも事実です。
となると「穢れ」意識にもきちんと意味がある、ということになります。
そんなことをツラツラ考えているのも楽しい。
答えはひとつではないのです。
答えは人の数だけあるのですね、きっと。
また一つ自分自身に近づくことができました、自己肯定が増えました。
当エッセイ執筆途中にトイレに行きました。
なんと ! ほぼ正常のうんこちゃん。
もう「クソ忌々しい」なんて自分を攻撃する必要はなくなりました。
これからはよりうんこちゃんとの良い意味での親密感を深めていきたいものです。