やられました。
当テーマの記事を書いていたら、またまた突然全文を消されてしまいました、ナニモノかによって。
ということは、書いていた内容が「真実」だとの、明確なメッセージでもあります。
なかなか核心に触れる内容だと、自画自賛ながらいい気持ちで書いていたのに再度のトライ、はまた別の機会にお話させてもらいますね。
私たちの言動は実は罪滅ぼしの意識がスタートではないかと考えました。宗教的教義によるものではなく、けれどもしかしたらその根底に宗教的教義の概念が含まれているのかもしれませんが。
簡単にお話しましょう。
愛を説く人がいます。
その人の潜在意識には「愛なんて嘘っぱちだ」という意識があります。
その、「愛なんて嘘っぱちだ」と感じることに対する罪悪感から、顕在意識では一生懸命になって愛を説くのです。
つまり顕在意識で自分は愛の人間だと感じている人ほど、その実、自分は愛とは程遠い、罪深い存在だ、と感じている、ということです。
この、私個人の現段階での仮説をこれから少し検証してみようと思います。
もしこの仮説が真実の一つだとすると、私たちは人の生き方をみれば、その人が何を恐れているのかがわかり、「ああ、この人は○○が怖くてこういう言動をとっているんだ」と他者の受け容れができるようになります。
自分の受け容れ。
他者の受け容れ。
この両方ができるようになると、かなり生き方が変わってきます。
今よりさらに、こころ軽やかに生きられるようになるはずです。
もしかしたら私の中の自己統合のプロセスが次なる段階に入ってくれたのかもしれません。
メチャクチャ自己否定の強かった私だからこそ視えて来た他者肯定のメソッドなのかもしれません。
自己否定を自己肯定に。
一生続くテーマだと感じていますが、それでも「進化」の兆しがあらわれたのでしょうか。
一歩一歩。
時に下がってまた一歩。
それでも変化は起きていますね、確実に。
今朝目がさめた時に確信したのです、何かのフタがまた一つ開いた、と。
先ほどランチ帰りに、家の近くの小さな公園に立ち寄りました。
ベンチに座っていたら、ネムの木の花が私の頭の上にハラハラと落ちてきたのです。
「ネムの木」はもしかして「眠りの気 = 氣」ではないかと感じました。
その花が落ちて来た。
「目がさめたよ」という合図でしょうか。
現実に戻って来たよ、という意味なのか、それとも。