いよいよ、いよいよ、でしょうか、自分の中の「恨み」「憎しみ」の感情にたどり着きました。
いつもお話しているように自分では感じることのできなかった感情です。
受け容れ、受容、自己肯定が最近の私の楽しみになっていて、きのう、処分対象の本を探していたら『受け入れることですべてが変わる』リズ・ブルボー著に目が行きました。
二年前に買った本。この方の考え方はかなり厳しい「自己責任」がテーマです。何冊か購入しました、カウンセリングのプロの方で、しかも実地体験の豊かな方です。
最初に読んだのは10年くらい前でしょうか。
厳しすぎて、厳しすぎて、私のハートは反応しまくり。
「え~っ、そうとは言い切れないでしょ」
そう反応していることこそ、「まさにその通り」のサインなんです。一般に言われるところの「鏡の法則」です。他の人はすべて自分の鏡。他の人の言動が気にさわる場合は、その要素が自分の中にあって、けれど自分では絶対に認めたくないポイントで、あるいは他の人に対して素直に「うらやましいなぁ」と感じる時は、そのお相手の姿は自分自身の姿であって、それを認めることができない、いいことなんだから認めてもいいのに。そんな考え方が「鏡の法則」の概論です。
日本でも「鏡の法則」の本は大ベストセラーになったことがあるのではないでしょうか。どうやら心理学の伝統による概念のようです。
この、リズ・ブルボーさんの本の中に「老いと死を受け入れる」という項目があって、4月に二つの旅立ちを体験した私への何かのヒントが含まれているのかも、と感じ、そこを読んでビックリ。
両親が突然死で亡くなった場合、たいていの場合、遺された子供は両親に対して「恨み」の感情を抱くんだとか。
えっ、恨みですか ? と驚きまくりました。
私は両親も兄も突然死ですし、愛猫・海・かいは少し猶予をくれたけれど形としては限りなく突然死に近かったのです。また4月に亡くなった友人も突然死だったらしいという話を人づてにですが耳にしました。
これだけ突然死が続くということは、大きな人生の学びが託されているのだろうと感じていましたが、どうやらそのうちの一つに「恨み」を認識する、ということがあったらしいのです。
「恨み」の認識。
それを認め、受け容れることで大きな反転が起こり「愛」「許し」などを確信することができるようになります。
リズの本には「恨みを抱く」としか書いてありませんでしたが、私のハートがいろいろな情報をするすると手繰り寄せ、「許しだ、愛だ」と感じることができました。
その前に「恨み」をしっかり感じつくさないと。
何人の人に対する「恨み」 ?
自分のことながらハードルの高さにイヤケがさしたのも事実です。笑
「恨み」、さらに「憎しみ」「憤り」「怒り」。
私は自分の性格は、結構「スッキリ」しているタイプだと認識しています。
アップ・ダウンはそこそこあるけれど、それほど「ネチネチ」「イジイジ」した方ではないだろうと。
誰かを嫌いにはなるけれど、恨みつづけるというタイプではないんじゃないか、と。
けれどそれは顕在意識での認識。
潜在意識にはもっとドス黒い、自分でも目をそむけたくなるようなドロドロした感情が渦巻いているんでしょうね。
無自覚の意識、だから無意識。
無意識といっても意識がないわけではなくて、意識を認識できない、という意味ですから、それを意識化するためには、その事実を認め、そして感じつくす、というツー・ステップが必要になります。
仕方ない、というか、出て来てくれてありがとう、というか、その二つの思いと同時に長めの瞑想をして「恨み」「憎しみ」「憤り」「怒り」を感じました。
客観的に自分の思いを振り返ってみました。
私の場合、母の突然死がこの学びのスタートになっています。
突然死というのは、例えば突然「へその緒」を切られるのと同じ感覚ではないでしょうか。
つまり、本来繋がっているのが自然な状態だけれど、人為的にその繋がりを突然断ち切られる感覚です。
なんの前触れもなく。
心の準備をする猶予も与えられず。
自分は取り残された、切り捨てられた、見捨てられた、ある日突然、まったく理由もわからず。
その対象者に対して嘆きや哀しみ、同時に怒り、憤りがわいて来て、さらにそれが憎しみ、恨みと
その感情の重みがドンドン重くなっていく。まったく無意識のうちに。
ああ、なんか私ってかわいそう。どうしてそんな学びを選んだんだ。
とこんなことが思い浮かんできました。あえて「かわいそう」としていますけど。
ですが、結果的に。
私は一年半前に自分が愛着障害らしいことに気づきました。
愛着障害とは、幼い時に両親、特に母親からの愛情を充分に感じられずに、そう感じられないだけで本当に愛されなかったわけではないのですが、本人は「愛されなかった」と感じる心のクセのようなものを言います。愛に執着しているのです、だから「愛着障害」。
有名なところではマリリン・モンローは重篤な愛着障害だったのでは、とする専門家も少なくありません。彼女のあの麗しさ、愛らしさは、実は愛着障害だからこそ、のものだと。
愛着障害の気質、傾向の人はかなり多く、また誰もが100%の満足を感じて育ったわけではない、というのが私の個人的感覚です。
愛着障害という状態、心のクセを受け容れた私は、そこから徹底的に自己統合と自己肯定に向き合ってきました。愛との適切な距離感を取り戻すためです。
もしかしたらその結果、今回の「恨み」「憎しみ」の認識にたどり着けたのかもしれません。
別の視点で視るのなら、心に母に対する「恨み」があったからこそ愛着障害ではないかと気づくことができ、その結果、自己統合をすすめることができたのかもしれません。
ということは「恨み」や「憎しみ」にはきちんと意味があって、「恨みや憎しみなんて捨てなさい」と一方的な切り捨てをすすめるのではなく、「恨みや憎しみがあって当然なのよ、人間なんだから。それだけ相手の人を好きだったという証拠でしょ。その恨みや憎しみもその人がくれたプレゼントなんじゃない ? だったらしっかり味わなくちゃ。その苦みを徹底的に感じるの。すると今度はやさしい、甘やかな感情がわいてくるのよ。それを感じるための恨みや憎しみだったんじゃないかしら」とすべてを「受容」できるようにと導いた方が、その人の心は軽くなるのではないでしょうか。
少なくとも今の私は後者のタイプのよう。
そのプロセスを体験させてもらえたそのことが母からの大きなプレゼントだと、そう思いました。
それこそが母の魂からのプレゼントだったのです。
私たちの感情に良い悪いはなく、また優劣もなく、その時に必要だからわいて来てくれているか、あるいはその感情に気づく何かのキッカケをもらっています。
自分にとって好ましく感じられない不快な感情だからと退けてしまえば、私たちの体内にはたくさんのエネルギーのゴミが溜まってしまいます。
ゴミを資源化、あるいは資産化するためには、そのゴミの存在を認め、しっかり、と受け容れることが大切です。
リズの本は、少し読み返してみたら、今の私のハートに心地よいゆらぎを起こしてくれる内容のものでした。
わが家の書籍、全処分を検討していましたが、しばらくはまだお世話になろうと決めました。
ちなみに「恨み」「憎しみ」に居場所を作ったら、身体中のエネルギーがスパークしまくり、です。
ずっと「気づいて、ここにいるよ。あなたの一部だよ。あなたそのものなんだよ」って涙ながらに訴えてくれていたのかもしれません。
もしかして、私って誰かに対して殺意とかも抱いているかもしれませんね。無意識のうちに。
キャッ、またまた楽しみが一つ見つかってしまったかも。
殺意が転じれば、大きな受容力だったり、慈しみだったり、もしかして協調だったりの、限りなく愛に近い感情が満ちて来てくれるような気がします。
自分の中の「無意識」に息を吹きかけてあげる。
究極の、そして誰でもできるセルフ・ヒーリングの一つです。
それが進めば進むほど、自分の真ん中との繋がり感が強くなり、自分の本来のパワーを引き出しやすくなるのではないでしょうか。
私たちの人生に必要なものはすべて私たち自身の中にそろっています。
無駄なもの、不要なものは何一つありません。
ちなみにきのう「10日」は愛猫・海・かいの月命日でした。
海・かいちんからのビッグ・サプライズでもあったんでしょうね、きっと。
亡くなった命、こちら的には。
フルパワーで本来の輝きをスパークさせている命、あちら的には。
大切な家族や友人の旅立ちはとてつもなく淋しいものです。
けれど彼らは何年経っても、ずっと私たちを見守り続けてくれていて、いつでも私たちをベストの方向に導いてくれているのかもしれません。
縁の形は変わるけれど、まったく繋がりが消えてしまうということではなさそうです。