私は淋しがり屋だと思います。
思います、そうなんです、あまり意識はしていないのだけれど私は一人暮らしの経験がないのです。
ということは潜在意識が「独りじゃ淋しいよ、一人ぼっちじゃ淋しいよ」と教えてくれているんじゃないでしょうか。
以前、「お一人さま」を自認する女医さんと知り合いになったことがあって、その方、「私はお一人さまに誇りをもっているんです。ぜひ私をテーマにしてお一人さま向けの本を書いてください」と言ってくださっていました。
結果、その企画は成立しませんでした。当時私のハートにまるで響かなかったというのがその答えなのかもしれません。
一人であることに「さま」までくっつけて、一人で生きている自分を誇示する必要があるんでしょうか。
実は淋しいんじゃないでしょうか、人がそばにいてくれなくて。
違うのかな、私にはそう感じられます、今の私には。もちろん批判ではなく、状況を判断しただけです。
それをひっくり返して自分のことに置き換えてみると、私は一人が淋しくて淋しくて、一人でいる自分は誰かといる自分より弱くてちっちゃいと感じているのかもしれません。
一人でいる意味、もちろんたくさんあります。
スピリチュアル系の情報の好きな方なら、「一人だとその分ハイヤーセルフに繋がりやすくなるからそれはそれでヨシ」みたいな感覚をもっているのではないでしょうか。
それもわかります、理解できます。
けれど私たちには「肉体」があって、肉体は肌をもっていて、肌はセンサーになっているので、誰かと接していることによって愛を実感したりするんですよね。
つまり肉体を意識しなければ一人ぼっちは決して淋しいことではないのですが、肉体的感覚を想い出すとやはり一人は淋しいものなのです。
どちらを優先するか、で同じ命でも「淋しくない」「淋しい」が変わってきます。
私は心身魂の三位一体での命を体験している時なので、「淋しく感じない時もあるけれどやっぱり淋しいと感じる時もあって両方の自分がいる」というのが一番今の私に近いような気がします。
私は結婚していますが、主人が忙しくて一人の時間も少なくありません。
だからなのか、でも、なのか、愛犬・華実と愛猫・海・うみがいてくれるのであまり淋しいとは感じません。
逆に主人と長時間一緒にいるとうっとうしくなるくらいです。
何が言いたいか、というと、精神世界に没頭しすぎると、淋しがり屋の自分を置き去りにしてしまうんじゃないかとそう感じたのです。
みんな淋しいからSNSで繋がり合うんじゃないかと。
だったら「私は淋しがり屋さん」と淋しがり屋の自分の居場所を自分の中に用意してあげた方が自分との一体化が進むんじゃないでしょうか。
この世に淋しくない人なんて一人もいないんだから。
視点を変えれば、一人ぼっちで生きている人も一人もいなんだから。
私は淋しがり屋の自分を抑圧して強がって来たところがあるのかもしれません。
今頃になって、それがあふれ出て来たのかもしれません。
でもあふれ出て来てくれたということは、今、そのことにしっかり向き合って、認めて受け容れてあげるべき時だよ、という祝福の時でもあるので、しっかりじっくり味わいつくそうと感じています。
淋しがり屋さんに居場所を作ってあげると、意識の反転が起こるんです。それこそがもしかしたら「お一人さま」の真価なのかもしれません。あるいは、それこそがワンネスのはじまりなのかもしれません。すべては大いなる一つ、という意味の。
どんな事柄も一つの顔だけを捉えるのではなく、多面性をもって多様性をもってその感覚を楽しめるようになると意識の幅が拡がり、人生の喜びが深まります。
いろいろ出てきますね。楽しまなくちゃ、思い切り。
そして「この世」的には一人ぼっちで旅立っていくのです。
「あの世」的にはきちんとお迎えが来てくれて「安心」に包まれて、くるまれて旅立つのです。