「薬」と「毒」。
ある意味表裏一体。
ある物質は使い方次第で「薬」になることもあれば「毒」にもなる。
人間に関しても同じなのかもしれません。
私たちの性格的気質のようなもの、時に「薬」、時に「毒」。
また自分は「薬」のつもりでも他者にとっては「毒」の要素に視える場合もあるかもしれません。
毒親という言葉があります。
私は児童虐待の本をゴーストライター時代に書かせてもらったことがあって、実はその時に一通りの心理学の流れをインプットさせてもらっていたことを今思い出しました。
虐待を行う親は「毒親」。
確かに、なんですが、ふとエネルギーの仕組みを考えてみました。
もしかしたら「毒親」たちは自分の子供にこそ「毒」があると感じているのではないかと。
「毒親」は自分の中の「毒」を子供たちに投影しているのですが、親自身はそれに気づきません。
「このコの毒が私にこんなことをさせているの」と思って虐待行為に及んでいることは十分に考えられます。それが投影の仕組みです。
ということは子供たちは知らないうちに「自分がいけないコだからこういう目に遭うの。自分がいけないコだから、パパやママが怒るの。いけないのはパパとママじゃない、僕なの、私なの」と感じていくようになる、ということが一般的に言われている事実です。
ということは。
「毒親」は自分の子供を「毒子」と思い、その子供もまた自分のことを「毒」と思ってしまうわけですね。それが事実ではなかったとしても事実としてそう認識してしまうのです、お互いに。
すると「毒」の循環が起こって、虐待に関与する「被害者」「加害者」の立場でお互いにお互いの負のエネルギーを循環してしまうことになります。
「虐待」の問題がなかなか解決しないことの背景にエネルギーの循環があるとしたら。
大人社会のイジメに関してもおそらく同様のことが言えるのではないでしょうか。
ということは誰もが「イジメ」の被害者になる可能性があるということです。
私たちの潜在意識はそれを認識していて、「被害者になりたくないから加害者になる」という選択をする人もいるかもしれません。いわゆる防衛本能によって。
「虐待」にしても「イジメ」にしてもその連鎖は、研究者たちも指摘しているところです。
私たちのDNAの中には、誰しも「イジメ体験」の記憶が組み込まれているのかもしれません、潜在意識にはそれがしっかりと息づいているのかもしれません。
だとすると、もしかしたら私たちの中の「毒意識」は万人に備わっているものだとも言えるのではないでしょうか。
そう、もちろん私の中にも。
虐待された記憶なのか、あるいは虐待した記憶なのか。
イジメられた記憶なのか、あるいはイジメられた記憶なのか。
今生ではそういう経験をしていなくても。
「毒」と言われるものの心の殺傷能力は、それを感じる人によって変わってきます。
タフな人、ナイーブな人、反逆精神の強い人、復讐心の強い人などなど、人の心のタイプは千差万別です。
それでも誰もが「毒」を隠し持っている可能性があるのだとしたら、その事実をまずは受け容れてみる、というのはいかがでしょうか。
私は意図的に誰かをいじめようと思ったことはないけれど、もしかしたら誰かは私にいじめられたと感じているかもしれません。
その人が「この人の毒が嫌い」と私に「毒意識」を投げかけたこともあるかもしれません。すべて無意識のうちに。
だとすると、私は「毒なんていらない、毒なんて来るな」と毒を排除しようとするより、「毒によって私たちは淋しさや辛さを共有できる生き物なんだね。毒があるからこそ繋がれる部分もあるんだね。本当は愛で繋がりたいのに、そうすることができなくて。みんな淋しい生き物だということを自覚するために。自分自身に近づくために」と自分自身に内在しているかもしれない「毒」を抱きしめることが、この世から虐待やイジメを減らす第一歩に繋がると感じました。
私独自の感じ方かもしれません。
けれど私はそう感じたのです。
「毒」の自分を抱きしめる。
自分自身の「毒」を抱きしめる。
誰にでもできるセルフ・ヒーリングです。その気になりさえすれば。
机上の空論だと感じる方もいらっしゃるでしょう。
それでも私は実践しますけど。笑
せっかく気づいたのですから。
私の中にこれっぼっちの「毒」も存在しないことを証明することは不可能だからです。
私の中に少しの「薬」が存在することは間違いないと確信できるからです。
人間の長所と短所は表裏一体。
いずれもがあっての長所であり、短所であり、その人独自の特徴です。
その一つ一つを自分自身の中に包み込む。
これが自己肯定力に繋がります。
自分自身との繋がりを深めます。
すると心に平和が満ちて来て、人に対して必要以上に「毒」を放つことを抑えられるようになります。良い意味での抑制、です。
「毒」を「薬」に変換するポイントに繋がります。
自分の中のお宝が一つ、また煌き始めます。