ライトワーカーという言葉をご存じですか。
ニューエイジ系、スピリチュアル系の方がよく使う言葉です。
人々の足元を照らす役割の人、人を導く灯台の光のような役割の人、などの意味が使われるのが一般的です。
私がこの言葉を知ったのは10年くらい前。
そっか、もしかしたら私はライトワーカーと呼ばれる魂なんだ、がんばらなくちゃ、と。
あれから10年。そういう表現をしている方は少ないのですが、あえて。
すべての人がライトワーカー、だと私は捉えています。
ライトワーカーに対して「闇」の存在があって、早い話、光と闇の対決、の構図を作っているのが
一般的なライトワーカーの解釈です。
この解釈だとどこまで行っても光と闇は対決の関係です。光が闇を取り込むとしても。
私たちはさまざまな役割をもってこの世に生を授かっています。
どの命、どの魂をとっても「唯一無二」の存在。つまりどれもが必要な存在。
闇と言われる人はこの世に必要がないのに生まれて来ているのでしょうか。
光だけが必要ならなぜすべての人が光として生まれてこなかったのでしょうか。
これはおそらくキリスト教的解釈の「天使と悪魔」と同じ考え方です。
キリスト教義的には天使は善の存在、悪魔は悪の存在、天使のみが正しい存在という解釈がなされているのかもしれません。
宗教的教義の是非ではなく、東洋思想的にみると、天使も悪魔も同価値。
悪魔がいるからこそ天使の存在が際立ち、悪魔意識があるからこそ、人々は自分の中の天使意識を取り戻そうとできるのだ、という捉え方がなされるのではないでしょうか。
私は宗教には興味がなくて、それらの教義にも詳しくありません。
あくまでも私自身の解釈でとらえると、私の中ではすべての人がライトワーカー。
誰もがこの地球を照らす存在です。その照らし方のあらわれ方が、一見「光」である場合と一見「闇」である場合とにわかれるだけ。
われこそはライトワーカー、なのではなくすべてがライトワーカーなのですから、みんなで協調し合い、共振し合い、共鳴し合い、時に一時的に対立の構図になっても、結果おさまるべきところにおさまる、そのプロセスに過ぎない、という考え方ができるような気がします。
綺麗ごとで済まそうとしているわけではありません。物事の視方、視点を少しだけ丸くしてみると、世界観そのものが変わるよ、ということが言えるのではないかと思ったのです。
私はあえて「ライトワーカー」を目指そうとは思いません。
また「ライトワーカー」と呼ばれる人、あるいは自分をそう定義づけている人たちに憧れも抱きません。
すべてが一つの光の大きな目的のために、便宜上形を変えて分散した光の分子だと思うから。
すべての関係がフラットだと思うから。
私の目指す世界は「○」。
どこまで行っても水平の関係です。
もちろん他の考え方、解釈も尊重します。
けれど「私はそう思う」、ただそれだけ。
そしてその実現のパーツの一つとして私らしくありたいと、そんな風に思っています。
「○」の世界の片りんはどこかに視えて来ているのでしょうか。
自分の心の中の「○」を増やしていくことが今の私にできるライトワークなのかもしれません。