きのう、義父の四十九日の法要が営まれました。
先ほど調べてみたら、お釈迦様の教えの中に「極楽と地獄」の概念はないとの説にたどり着きました。
さまざまな角度から視ないと明らかにならない事実はたくさんありますが、そのことを前提に物事を考えてみます。
四十九日というのは、一般には閻魔様の判断によって故人が極楽に行けるか地獄に行けるかの裁きが下される日なんだとか。
義父の葬儀の時に、お坊さんの口から「地獄」という言葉が出て、何も知らなかった私はビックリしてしまいました。
私は今までに家族の葬儀を三回体験しています。
その時に「地獄」の言葉は一度も出てきませんでした。
わが家は特定の宗派の檀家ではないのですが、葬儀に関しては、「地獄」の概念のない宗派のお寺さんにお世話になったようです。
宗教論争をするつもりもなく、けれどお釈迦さまは地獄の存在は説かれなかった。
とすると、こんな考え方もできるのでしょうか。
お寺さん、お坊さんは修行をしてもやはり私たちと同じように「地獄」への不安意識がその潜在意識にあるのかもしれません。
もちろん顕在意識にはないでしょうけど。
とすると修行も何もしていない私たちが地獄を恐れても何ら不思議はありませんね。
ただし、私は個人的に「地獄」の概念はなくてもいいのでは、と感じています。
動物君が亡くなった時に、ある飼い主さんの菩提寺の住職さんが、「四十九日の法要をきちんと行わないとペットも地獄に堕ちることがあるんですよ」とその飼い主さんファミリーを諭したんだとか。
これも個人的に。
あり得ません、動物君は地獄には堕ちません、動物君のための四十九日の法要もしなければいけないものではありません。
もちろん「ぜひ」という飼い主さんはご自分の意思でなさるといいと思います。
そういえば愛猫・海・かいが旅立った時もある獣医さんに四十九日のお話をされたことがあります。
その時は「地獄」の言葉は使われませんでしたが、私的には実はあまりピンときていませんでした。
慣習には素晴らしい点もあるかもしれませんがともすれば、ということで負の点が感じられてしまうケースもあるのではないでしょうか。
仏教の教義めいたものを動物君の生死にまでに持ち出すのはどんなもんなんでしょう。家族と同じだから、ということで気持ちが落ち着きます、というケースの場合はそれはそれでヨシです。
けれど「地獄云々」という言葉で不安を煽るような導き方は、私個人は好みではありません。
大切な家族が亡くなって気が動転している時です。どんな言葉でもありがたく聞こえてしまうかもしれません。それはそれでいいとは思いますが、ペット・ビジネスに関わっている方は、自分がその飼い主さんだったらどうするか、やはりその視点は大切にしたいものですよね、私自身も含めて。
自分の価値観をあえてお話する必要はないのかもしれません。その辺、慎重に、丁寧にケースバイケースでの対応ができるように自分の引き出しを拡げておくことも必要なのではないでしょうか。
義父の四十九日の法要でもなければ、私も気にしなかったことかもしれません。
気づけて良かった、これも義父の導きの一つと感謝しています。
ところで義父の旅立ちの数日前に、かつての友人が突然死の形で旅立ちました。
人づてに聞いた話なので細かい状況はわかりません。
彼女の四十九日も無事営まれたのだろうと思うと、やはり気持ちはホッとします。
ご遺族もお気持ち、少しだけ落ち着かれたかもしれませんね。
そういう意味での一つの区切りとしては素晴らしい慣習の一つなのではないでしょうか。
良い面もあり、これはチョットというところもあり、その両方を受け容れながら自分にとってのその時そのシチュエーションでのベストの受け容れ方をすればいいのかもしれません。
今後葬儀で「地獄」という言葉が出て来てもビックリしないで済みます。「地獄」との対比で「極楽」の存在が際立つのかもしれませんし、実際に地獄という場所は存在しないのかもしれませんから。
ナーバスになり過ぎず、軽くかわせるくらいの余裕が持てるといいな、と自分への励みにしてしまえばいいのでしょうね。
義父は形としては「変型」ですが老衰に近い旅立ちでした。そのお蔭なのか、私は早い段階で義父の旅立ちの哀しみを昇華することができました。どんな形の旅立ちだとしても「天命」という言葉で語られるものなのでしょう。もちろん気持ちが追い付かない場合もあるかもしれませんが。
旅立ちは本当に淋しいものだけれど、遺された者にとっては大いなる学びの時でもあるようです。