自己犠牲からの解放。
当エッセイ執筆途中に浮かんで来たメッセージです。
さて。
慢心とは ?
何か外のツールに頼った状態を「自分の等身大」と捉えて、結果自己と乖離しての自信を感じること。
自信とは ?
自分の中にある、自分に備わっているすべてのありのままを受け容れることによる安心感、充実感からあふれ出る力のこと。
と感じました。
慢心は、言葉を変えるともしかしたら誇大妄想の状態かもしれません、〇〇が得意な自分はこんなにすごいんだぞ、という優越感のようなエネルギー。
自信は、すべて自分の真ん中と繋がった「何があっても大丈夫」という、さらに奥深く、根源からわき出てくる泉のようなものかもしれません。
人は慢心している時にはなかなか自分では気づけないもの。
けれどそれが自分自身の力によるものか、あるいはツール、手法を介してのものなのか、そんな基本を覚えておくようにすると、「あ、今の私は慢心モードかも。ということは自分の真ん中と乖離してしまっているというサインね」と自分自身に立ち返るキッカケとなるはずです。
自信満々って、たいていの場合あまり良い意味では使われないことが多いのではないでしょうか。
けれど自分の中からチカラが満ち満ちている状態と傲慢チックな状態と、冷静に視てみるとその違いがきちんとわかりますね。
チカラが自然に満ち満ちている「自信満々」は実はとても素晴らしい状態です。
何かをごまかして、自分を取り繕って、等身大の自分より大きく見せようという虚栄心を伴った「傲慢」は「慢心」とも相通じる状態。
「満」と「慢」の違いなんでしょうか。
あなたは自分に自信がありますか。
あなたはどこか慢心モードですか。
慢心モードは実は「不安」のあらわれ。
自信モードは実は「愛」のあらわれです。
どちらもあって私たち。
どちらもあって自信満々状態に進めます。
私はこういうところは自信がありますがこういうところは自信が持てません。
すごく正直な考え方ですよね。
その自信のないところも含めて自分自身だ、と受け容れた時、自信モードがさらに強くなってくれます。
そう、自信とは受容するチカラに他なりません、自己肯定です。
自己肯定は自己肯定できない否定的な自分も肯定することによって膨らんでいきます。
焦らず自分自身に向き合う。
時に慢心を感じながら。
その「ゆらゆら」具合が私たちにはちょうど良いのです。
慢心が行き過ぎると人は足元をすくわれます。
自信が積み重なればさらに安心が満ちてきます。
安心しても平気なのです、源に繋がることができれば。
不安を抱いていても平気なのです、源があることを忘れなければ。
私たちはいつだってヤジロベイのようにゆらゆらしているものです。
そのゆらゆら感が程よい感を見つけ出してくれますね。
慢心と自信。
共に手を取り合って私たちを支えてくれる頼もしい仲間たち。
人間って結局孤独にはなりきれない生き物なのかもしれません。いつも誰かしら、何かしらがサポートしてくれている、好むと好まざるに関わらず。
自己犠牲は必要ありません、大丈夫、自分を愛して、自分を大好きになって、自分を慈しんで愛おしんで。するとどんどん源に近づけます。
今までの生き方もこれからの生き方もすべてOK !
何が言いたいのか意味不明のきょうのエッセイです。
けれど、大丈夫、何かが変わったはずだから。あなたも、私も。
根拠のない自信がわいてくることを体感しています、今。