きのう、愛犬・華実とお散歩をしていた時に、人の旅立ち、離別の体験などは宇宙レベルでの新陳代謝にあたるのだろうという感覚が浮かんできました。
友人が先月、突然死の形で旅立ちました。
その友人がらみでの「学び」が次から次に浮かんで来ているようなのです。
「新陳代謝」、細胞の再生の意味ですね。
再生のためには、一旦破壊が必要。
破壊という感覚は私たちを混乱させます。
けれど再生という感覚は私たちを喜びへと導きます。
破壊に関して、まだまだ抵抗感があるということは、破壊そのものが私たちの人生の大きな課題の一つだということです。
破壊、契約破棄。
古い契約は破棄しましたよ、という気持ち。
そして新たな契約が結ばれます、破棄したからこその新たなベストの誕生です。
これを人の生死に結びつけて考えてみました。
旅立つ人は、この世での古い契約を破棄し、あの世での新たな契約締結への第一歩を踏み出すわけです。
では遺された人はどうなのかと言うと、やはり古い人間関係における契約を破棄し、新たな人間関係を結ぶための準備に入る、ということです。
古いと新しいに優先順位があると捉えているからこそ、古い契約破棄と言うと、何か「切り捨てる」という罪悪感のようなものを感じるのではないでしょうか。
単なるサイクル。
古いものがあって、新しいものがあって、また新しいものは古くなって、さらに新しいものが巡ってくる。
雨が降ります。するとその時の雨は新鮮な雨ですが、次に雨が降ればその雨は古い雨となります。
古い雨がいつまでも新しい雨として存在することはできません。
では古い雨は新しい雨より価値が下がるのか、というとそんなことはありません。
ただ時系列で考えると「古くなる」、それだけです。
人間もそうですね、赤ちゃんの命だけが尊くて、シニア層、老人の命が尊くないかと言えばそんなことはありません。赤ちゃんも老人も命の重さと意味は同等です、そのあらわれかたの形態が異なっているだけ。
とすると、友人の旅立ちは、友人にとっても新たな世界への第一歩となり、また私たち遺された立場の人間にとっても、新たな生き方への第一歩となっている、ということにならないでしょうか。
旅だった命も遺された命も、命の重みと意味、価値は同等だということ。
だとすると、大きな視点で視るのなら、友人の旅立ちは友人にとっても私たちにとっても喜ばしい変化のあらわれ、ということになりますね。現実的にそれが腑に落ちるまでには時間がかかりますし、現段階で、その事実を「受容」できる人はなかなか少ないかもしれませんけれど。
あえてこう書いていることには意味があって、そういう考え方を「冷たい」とか、「死者に対しての冒涜だ」と捉えるのが一般的で、私自身もそう感じないわけではなくて、けれど新たな気づきは気づきとして大切にしたい、という想いがあるからです。
私たちはこの世でさまざまな「体験」をするために、今のこの肉体を授かっています。
肉体を脱いだ人にはその人なりの新たな「体験」の世界があるのでしょう。
どんな世界なんだろうと思いを馳せることはあっても、この世での体験すべき課題の方が優先されるので私は現実を生きていこうと新たに心に決めました。
今までの古い契約は破棄して。
新たな人生のスタート。何回目のスタートでしょう(笑)。
私たちの人生は毎瞬毎瞬がスタートの瞬間なのかもしれないですね。
常に古い契約から新しい契約へと渡り歩いている、循環の道筋。