当エッセイ、100を超えました。
101個目の記事が2018年5月5日の「5月5日、エネルギーが変わりました」のエッセイでした。
後から気づきました。意味深ですね、何かありそう(笑)。
さて本エッセイはきのう執筆していたものですが、アップはきょうとの指令 ! が出たため、今、アップの作業を進めているところです。
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前エッセイで「エネルギーの激変の予感」というお話をさせてもらいましたが、やはり、という変化が起きました。
きのう、きょう、瞑想をすると首の後ろにものすごく強くエネルギーが入りました。
感覚として、誰かが首のあたりに「何か」を打ち込んでいる感じ、そしてそれを誰かが引き抜く感じがしていました。
首周辺はコミュニケーションに関係します。
私の場合、作家として言葉でのコミュニケーション、さらにカウンセラー、ヒーラーとして言葉とエネルギーのコミュニケーションを生業とさせてもらっています、そのあたりを誰かがずっとブロックしていたようです、何か、太いクギのようなものをさして。
コミュニケーション、同時に創造性とも深く関係しているんだとか。
さらに首だけでなく、太い杭のようなものが首の後ろから尾てい骨のあたりまで突き抜けている感覚がありました、同時に十字架を背負わされている感覚。
なんだかとてつもない感覚に巻き込まれていました。
なんなんだろう、これ。
調べてみたらどうやら「テンプル騎士団」のエネルギーのようです。
テンプル騎士団とは、修道士であり、戦士たちの集団です。そのシンボルマークには「清貧」の精神が描かれていて、しかも当時の権力支配者によって拷問、火あぶりでの大量処刑という目に遭わされたという、まさに悲劇の殉教者集団です。
私の過去生なのか、それとも集団意識なのか、どちらかはわかりませんが、「これか !」という感じがしました。
背負わされた十字架は、嘆きの十字架だったのでしょうか。
そう気づいた途端、エネルギーがまた強くなり、今度は左手と右手をしっかり繋ぐエネルギーが流れました。
つまり、尾てい骨から首の後ろを抜ける縦のエネルギー、そして左手と右手を繋ぐ横のエネルギー、まさしく十字でのエネルギーの流れの体感です。
数日前から「奉仕」「自己犠牲」という言葉に引っかかりを感じていたと同時に、「与えるのは得意、受け取るのは苦手」というメッセージが何回も浮かんで来ていました。
与える手は右手、受け取る手は左手。
その左手から右手にものすごい勢いのエネルギーが流れていきました。
コミュニケーションと同時に創造性のポイントでもある首の後ろに、誰かがクイをうち、縦、横のエネルギーを確かにブロックしていたようです。
けれど意識でいうと、私自身の魂の指令の可能性が高く、そう、私の魂はトコトン自分自身の可能性をブロックするという自虐的過ぎるストーリーを楽しんでいたみたいです。
その、呪縛、ブロックの、このタイミングでの解除も、私の魂の選択なのでしょうね。
なんで今まで ?
なんでそこまで ?
と自分の魂にクレームをつけたい気分です。
でも、ま、いっか、ブロック外れましたから。
エネルギーとの距離感がちぢまると、こういうことが突然自然に起き始めます。
どなたもそういう展開が訪れる可能性がありますし、実際もう来ている場合もあるのかもしれません。
一見、変な体験でも、もしかしたらどなたかのお役に立てることもあるかもしれませんから、私は正直にデフォルメなしでご報告させていただこうと思っています。
キリスト教に関しては、以前から何かある、とずっと感じていました。
個人的に宗教にはほとんど関心がないのですが、それでも引っかかるモノがあったのは事実です。
それがこういう形であらわれてくれてホッとしました。
「嫌い、苦手、なんとなく違和感を感じる」というものはたいてい自分の中の魂の課題と関係していると言われています。
逃げないこと、排除しないこと、なんですよね、それらの一見否定性のある「意識感覚」も。
すべてを自分のものとして包み込む。できる範囲で、できるペースで。
清貧の縛りは、本当に苦労させられていたので(笑)、心底嬉しいです。
さらに創造性へのブロック解除。
ものすごいブロックだった、ということはそのエネルギーの反転ですから、ものすごく創造性豊かになれる可能性が秘められているということになるかもしれません。
このように、一見まったく無意味と思える行為に時間を割くことで、地球への奉仕に繋がるのだとしたら。
私はまちがいなく地球の一部だという証明をさせてもらっている時なのかもしれません。私の、この命を使って。
その証明は私のためであると同時にあなたのためでもあり、地球のためでもある。
私は全体の一部であり、全体は私の一部である。
ワンネス。
大きな一つとなる、という意味の言葉です。
この言葉は6年前、天国に還った愛猫・海・かいが私をベランダに呼び出して、とうとうと語り始めたお話を示したものです。当時私は何を言ってるんだかチンプンカンプン、これって死語なのかな。いずれにしても海・かいの言ってる言葉を漏らさず記憶にとどめようと必死でした。この時、はじめてあちらの存在とのコミュニケーションを体験しました、海・かいが猫さんの姿であらわれたわけではなく、意識の中に突然ストンと入り込んで来た感覚です、言葉がいきなり意識化していたというか。
その時に感じたことは、海・かいは私の知っている海・かいではなくなってしまった、という事実。どこか少し晴れがましいような、けれどトコトン淋しいような複雑な気持ちでした。
一方、海・かいは嬉々としてしゃべっていました、これが僕ちんの本当の姿さ、と言わんばかりに。海・かいとの距離感が縮まったのと同時に、決定的に関係は変わった、と思い知らされた気分でした。
はぁ~、丸6年かかってしまった、ここまで来るのに。
海・かいは時間のない世界に住んでいますから、瞬時に過去にも未来にも移動できるらしいです。
私は肉体レベルで生きていますから、「今」を感じることしかできません。
それでも感慨深いですね、6年前のあの日の海・かいに少しだけ近づけたような気がして。
海・かいはこんな世界にいるんだ。さらに深いところにいるのかな。