分離不安、という言葉が浮かんできました。
それに対応するかのように帰巣本能。
そして希死念慮。
さらに死への強い恐れ。
どうやらこれは「集合意識」のようです。
私自身が「分離不安」を意識したことは一度もありません。
が。
「帰巣本能」は結構あるんです、旅行などから帰ってくると心の底からホッとしてしまう。
なら旅行に行かなければいいのに(笑)。
ちなみに愛猫・初代、ぴぴ麿と二代目、海・かいはラグドールという種類の猫さんでした。
なんでもラグドールは帰巣本能がかなり強い猫さんなんだとか。
というわけで、私自身の帰巣本能の強さと彼らの帰巣本能の強さは何かしら繋がりがあったみたいです。
そして「希死念慮」。
これが出て来てはじめて「分離不安」の意味がわかります。
おそらく神との分離、あるいは楽園からの追放などをイメージしています、源との分離ですね。
だから早く源に戻りたい、つまり死にたい、旅立ちたい、という願望に繋がります。
表現を変えれば一つに戻りたい、統合したい、融和したい、という感情でしょうか。
それが「帰巣本能」に込められた一つの意味なのかもしれません。
さらに「希死念慮」があるのに、「死に対する強い恐れ」があります。
私たちの多くが「死」を忌むべきもの、忌まわしいもの、のように感じていることの裏には、「希死念慮」へのストッパーのような役割があるからなのかもしれません。
視方を変えると、「希死念慮」の強い人ほど「死に対する恐れ」は強くなるのかもしれませんね。
だから「生に執着する」 ?
こうやって視ていくとわかるように、私たちの意識のエネルギーは時に反転エネルギーと表裏一体、時に同じような意識のエネルギーが微妙に形を変えて何層にも折り重なり、しかもそれらは無限に続いていくようです。
つまり、例えば「死に対する強い恐れ」という感情は確固たるものとして独立して成立しているものではないらしい、ということ。
ということは、一つの感情は万華鏡のようにいろいろな顔をもっている、ということなのかもしれません。それをどう感じるかどう捉えるかはかなりその人の主観が関係してきます。そしてその時その時によってその人の主観も変わります、その感情の感じ方も「一期一会」なのです、その人にとっても宇宙にとっても。
ということは絶対的真実もなければ絶対的ウソもなく、そのすべてが同列で、すべて均等ということにならないでしょうか。感情に良い、悪いはなく、当然上下もなく、すべて同じだけ価値のあるもの、しかも流動的なもの。
私の中では感情も細胞のイメージです、毎瞬毎瞬再生を繰り返して、それは終わりのない再生で。
さて、「集合意識」はたくさんの人が感じた意識の集合体でしかも何層もに折り重なったものですから、私個人のトラウマレベルのものではなく、かなり膨大、かなり重い意識です。
その意識に到達すると、その意識の受け容れにも時間がかかります。
その一方、受け容れ後、大きな解放感に包まれます。
個人的意識と集合意識との差は実は私には区別しきれていないのが本当のところ。
けれど繋がってしまった以上、その意識のエネルギーは感じてしまった方が、地球にとっても私自身にとっても好ましいらしい、ということだけはわかります。
ふぅ、きょうの意識体は結構ヘビーなものでした。
その分、大きなお役目を果たさせてもらえたようで、この後ジワジワとスッキリ感が拡がってくるのではないかと密かに期待しています。
このように何らかの意識が急に浮上してきてくれた時はかなり「Lucky !」なので、たとえ不快なエネルギーでも感じつくすようにしてみてはいかがでしょう。
すると意識の浄化が進んでハートが軽くなるのを体感できます。
無理やり、ではなく、なるべく自然に。
無理にしようとしたことにはエゴが含まれているので、エゴも悪いものではないけれど、浄化度合が少なくなってしまうこともあるんです。
もちろんどちらでもご自分のお好きなように、ということが前提になってきますけど。
「集合意識」にはもちろん明るいものもあります、けれど重いものは石のようにカチコチになっているものが多いので、何度も同じ感情を味わされるケースも少なくありません。
それでも「Welcome ! 」と感じられる心の余裕がいつもあるといいですね、お互いに。
感情を感じきる、という特典を与えられているのは、私たちが生きていることの証ですから。
※ 追記
アップする前に追記を書いています。当記事は昨日アップ予定でしたが本日になりました。
そして書いているうちに私の中のエネルギーがパツパツになって苦しくなってしまったため、何回もお休みを。
私たちは食べる時も話す時も身体を動かす時も、すべて「自分」の意思で動いているような気になっていますが、もしかしたら形の視えない複数の存在のエネルギー関与があって、けれどその自覚はなくて、その結果、さまざまな行為をさせてもらっているのではないでしょうか。
あるいは天国に旅立った魂は、同じ目的をもった魂と同調しやすくて、特に旅立ったばかりの新鮮 ? な光となった魂は私たち人間との同調率が高くて、おもしろがっていろいろな行為に参加しているとか ?
どうも不思議な感覚です、気持ち悪くはないけど(笑)、エネルギーパツンパツン感覚。
私はこれくらいのボリュームの原稿は一気に執筆できるタイプなのですが、ここ数日何回も何回も書き直さなければいけなくなっていることには大きなメッセージが隠されている気がしています。
一つ私の持論なんですけど、こちらの世界の常識での「短命、突然死」の魂はどうもかなりの余力を残して天国に旅立っているようだ、という感覚があります。彼らは私たちの目から視ればともすれば「薄幸」なイメージにもつながりかねません。
それ、フェイントなんです、多分。
本当はあちらの世界で瞬時に光としてフルスロットルで活動するための布石だったんじゃないかな、と。
逆に言うと、彼らは最期の瞬間まで力強く生きていたことの証明を「突然死」という形に遺しているのではないでしょうか。
突然死による「居残り組」のベテラン体験者としての魂の私の、大きな気づきの一つです。