私はどちらかというと「違い」を受け容れられないタイプ。
自分と意見の異なる人がいると自然に距離を置いてしまうタイプです。
ところがきょうふと浮かんできたのは、私たちが相手をジャッジしようとしている時、それは違いを受け容れられないというサインが出ているだけに過ぎない、という事実。
精神世界の認識では「ジャッジすることは良くないこと」と言われています。
ジャッジとは裁きのことです。
「あの人はこういう考え方をする人でそれは社会全体で考えると良くない考え方だ」
とするのがジャッジです。
このジャッジ精神が出ている時は、実は自分と異なる意見を受け容れられないという感情のあらわれ。
だとすればその事実を受け容れれば良い。
ただそれだけではないでしょうか。
元々日本人は人と同じであることが麗しいと言われる民族性があることから、どうしても自分と異なる意見の人を「いけない」とジャッジしがちなんだとか。
けれどそのジャッジそのものにきちんと意味があって、自分は他者との違いを受け容れられないタイプなんだ、と認識させてくれている大切な「感情」「意識」だと認識していれば結果はおのずと変わってくるはずです。
そのことを何回か繰り返していくうちに、自然に意見の異なる人を受け容れる方向に移行していくようになるのではないでしょうか。
つまり、「ジャッジはいけない」ではなく、「ジャッジにも意味がある」。
自分は今、誰かを、何かを裁いている。
それはもしかしたら自分自身が裁きにあった記憶がたくさんあるからかもしれない。
裁きにもきちんと意味があって、それも愛の一つだと認識するための、そんな機会だったのではないかしら。
そう考えていくと、ストンと腑に落ちました。
私たちは違ってあたりまえなのに、その違いを「良くないもの」と判断する心の癖がついています。
そして「裁き」をいけないもの、と捉えるような心の癖もついています。
みんなフラット、みんな対等、みんな均等だとしたら。
まず、違いは良くないものと思っている事実を受け容れる。
そして、裁きを良くないものと思っている事実を受け容れる。
そうやって心の癖を少しずつ真ん中へと戻すことができるようになります。
社会通念というのは、心の癖の集合体と思ってもいいかもしれません。
ある意味、集合想念ですね、きっと。
集合想念は過去の意識の集合体のようなもの。
たくさんの人の心の癖のエネルギーが偏った社会通念を創り出してしまっていることは少なくありません。
それを一つずつ、少しずつ真ん中に近づける作業は、私たち人間にしかできないことなのです。
意識の歪みが社会通念となり、それらが人間の「対立」感情の大元を創り出しているとしたら。
意識の歪みをまず認識するところから始まります。
気の長いお話になりそうですが、少しずつ地球を癒すそのために、私たち自身の意識をフラットに近づけていくことが大切なのかもしれません。
ジャッジはいけない。
もしそう感じているのなら、まずそのことから向き合っていきたいものですね。
ジャッジをしているその事実こそが人との違いを受け容れるための「癒し」に繋がっていくのですから。
この世には「いらない」感情はありません、何一つ。
どんなにどす黒い感情でも排除していいものなど何もないのです。
けれど、現実にはそれがなかなか難しい。
いつも愛でいなさいとか、いつも感謝の気持ちを抱いていなさいとか、一見「光」と思える感情だけを「ヨシ」として来た社会通念がこの地球の多くをおおっているから。
すべての「感情」に意味があり、その「意味」の価値は「同等」。
愛だけを特別視するその意識が、意識の不平等を創り出しているのです。
それが地球のアンバランスに繋がっているのです。
愛とは不安や恐れ、恐れ、怒りなどなどすべてを包括したものを言うのかもしれません。すべてをまんまるく包むその状態こそが愛の真実の姿なのかもしれません。
愛は決して断片で語れるものではないのです、きっと。
愛と不安。
愛と憎しみ。
愛と無関心。
そんな対比さえ、愛には必要のないものなのでしょう。
愛を特別視しないと言いながらのこの矛盾。
おそらく、一般に言う「愛」とは次元の異なる「何か」を愛というのかもしれませんね。
なぁんてところにやっとたどり着いた感(笑)。
道は長いです、一歩ずつ、ですね。時には後退もしながら、それもあり、というところでしょうか。
そうそう、きょう、ストレッチ・レッスンを受けて来たのですが、きょうの先生は「代行」と言って単発でレッスンを行ってくれる先生です。
前回は確か去年の暮れ。
「やらされてる感はないですか」
この言葉がハートに響き、私はそれまで教わっていたストレッチ&ヨガ・レッスンからまったく別の先生のレッスンに変えました。
まさにやらされている感満載だったから。もちろん私自身のスタンスが、という意味です。
そしてきょうは。
「できない、と認識することが認知症予防に繋がる」
との言葉。先生はシニアの認知症予防のレッスンなどもされているそうで、さまざまなレッスンの中で「できない、ついていけない」と感じることが脳の活性化に繋がる、とのお話でした。
人間は完璧にできてしまうと、そこで脳が休んでしまうんだとか。
「できない」
と思うときちんと脳が頑張ろうとする。脳に刺激を与えることに繋がる。
「できない」=良くないことではなく、「できない」ということを認識するそのことこそ、脳の作用を助けると。
「できない」も「できた」も価値は同じだという事実。
またまた嬉しいGiftをいただいちゃった気分です。
ちなみにきょうのエクササイズ、私は「できない」ところもありました。
「できなかったら笑っていてください」との先生の言葉に「できないことの自己否定」も膨らまず、「できないコンプレックス」の強い私の心に、さわやかな五月の風が吹き抜けたような気分にさせてもらえました。
こんなご縁、出逢いも素敵ですね。