謝謝。ありがとう、の意味。
再見。さようなら、の意味。
太極拳レッスンの最後に、先生が必ずこの言葉を使ってあいさつします。
「謝謝。このご縁に感謝」
「再見。またの再会を祈って」
こんな意味合いが込められているんだとか。
縁あってご一緒できましたね、そのことに感謝。
縁があってまた再会できるといいですね。祈りをこめて。
これってなんにでも言えることではないでしょうか。
人との出逢い。
縁あってお逢いできました、ご一緒できましたね。
またお逢いできることを楽しみにしています。
再見はもしかしたら明日かもしれないし、一か月後かもしれないし、あるいはあの世での再会もあるでしょう、さらに来世での再会もあるかもしれません。
そう考えると、縁あって「今」ご一緒させてもらえたことも、また次なる再会をさせてもらえることもすべて「あちら」主導のご縁、ということにならないでしょうか。
さらに「再会」はタイミングはわからないけれど、必ずやってくるもの。永遠の別れなんてないんだよ、という意味に繋がってくるような気がします。
太極拳は宇宙と繋がるための体操のようなもの、気を集めて、自分自身の気を高めようとするもの、けれどその「気」も決して自分主体ではなく、あちら主体のニュアンスがあるのかもしれません。
気と巡り合うことさえ、「ご縁」と捉えているような気がしませんか。
となるとモノとの出逢いもみんなそうなのかな、と感じました。
縁あって出逢えた数々のモノたち。
形はゴミとなって一回さようなら、をするけれど、またいつか縁あって出逢えるのではないでしょうか。
再び巡り合えるその日までのつかの間の「さようなら」なのかもしれません。
人との出逢い。
縁あってしばらくご一緒させていただいたけれど、一旦お別れの形が訪れる。
そしてまたいつか「再会」の日がやってくる。いつかはわからないけれど必ず。
そう、ただ循環しているにすぎないのです、私たちすべてが。
たまたま自分を「主」で視ると、自分の前にあらわれて、そして自分の前から姿を消して、また少し形を変えて自分の前にあらわれてくれて。
すべてのご縁は「循環」しているその現象の一つのような気がします。縁も授かりもの、ということなのかもしれないですね。
謝謝と再見、どんなシーンにも使えるこの言葉。この言葉を使うだけで「一人ぼっち」の淋しさが和らぐような気がするのは私だけでしょうか。そもそも人は決して一人では生きていないのだけれど。
太極拳レッスンからいただいたプレゼントの一つ。
この言葉に巡り合えただけでもみっけもの、かな(笑)。
というか、かなりのお宝気分です。こういうの大好き。
これもまた「ご縁」。