反面教師。
一般的には「ああなっちゃいけないよ」という側面を見せてくれる人のことを言います。
たいていの場合、あまり良い意味では捉えられていないのではないでしょうか。
先ほどふと浮かんで来たのは、「反面教師」も「教師・マスター・人生の師」も本当は同じだけの価値があるものなんだな、ということです。
光の側面からストレートに導いてくれるのが「教師、マスター」と呼ばれる存在。
闇の側面から変化球を投げて、結果的に光に導いてくれるのが「反面教師」なのかもしれません。
とすると、私たち自身、「教師、マスター」的役割を果たす場合もあれば、お相手によっては「反面教師」のお役目に変わる場合があるような気がします。
摩擦が少ない、という意味で光の側面の教師の方が重宝されることが多いかもしれません。でも、実はどちらも教師には違いない。現実には反面教師の方が少しハードルが高い分、毛嫌いされてしまう場合も出てくるのかもしれませんね。
私の周りに「エゴ」の強い方が何人かいます。
その人たちの「エゴ」を自分自身の「エゴ」の投影だと思えない私は、「嫌だな、あの人たち、エゴが強くて」と感じることも少なくありませんでした。
けれどそう思うことでできるだけエゴを膨らませないようにしよう、という、自分への課題が見つかったような気がします。
今は「エゴ」はいけないものではないし、「エゴ」があることで私たちは生きていられる、と思えるようになったので「エゴ」との距離感は以前とは大きく変わっています。
「エゴ」を抑圧しよう、という気持ちは薄らいでいます。
そして「あ、今、エゴ」と感じることで自己肯定も進むようになりました。
だからと言って「エゴ」を際限なく膨らませていいか、というと、それは自己中になってしまい、行き過ぎればカオスも生まれてしまうかもしれません。
そこそこのエゴ、時々膨らむけど、まぁ、人にものすごく迷惑をかけるほどではないかな的自分がなんとなく視えつつあります。
それって聖人君子的人よりも、むしろエゴの大きいティーチャーたちとの関わりによって得られたもののような気がしました。
ふむふむ、「反面ティーチャー、ありがとう。あえて悪役を買って出ていただいたみたいで申し訳ないです、でも助かりました、ありがとう」、そんな意識が自然に浮かんできました。
もしも私自身がどなたかにとっての「反面教師」になったとしても、それはそれでお役にたっているってことじゃない ? と思ったらものすごく気持ちが楽になりました。
お互いさま、私たちはいつも「相互」の関係、「協調」の関係。いつも誰かと「同等」の関係にあるということですもの。
さらに言うのなら必ずしも「師」が上ではありませんよね、「師」となっている方もその弟子、生徒の立場の人からいろいろ学ばせてもらうことがあるはず。
「反面教師」だってそうではないでしょうか、エネルギーは必ず双方向に流れるものだから。
私たちはもしかしたら無意識のうちに必ずどなたかの「反面教師」になっているのかもしれません。
それもちゃんとお役目の一つだということ。
「反面教師」でも存在価値は何にも劣らないということ、優位でもないということ。
なんか、宇宙の仕組みって大らかだな、と感じました。その大らかさに身を委ねてしまえば安心ですね、どんな状況にあったとしても。