生命の躍動感

私たちは毎日、毎瞬の体験を心から堪能しているでしょうか。

毎瞬毎瞬、ハートの鼓動を感じているでしょうか。

 

どうやら私は幼い頃から「幸せホルモン」を分泌させてはいけないと自分自身に指令を出していたようです。

魂の選択 ?

 

胎児の時に幸せホルモンを分泌させなかった、あるいはできなかった人たちは、胎内でのつらい記憶を抱きかかえたまま成長してしまうんだとか。

 

胎児には記憶がない、としている説もあるようですが、胎児の時にすでに意識がハッキリしているという説もあって、私には後者の説の方がシックリきます。

 

胎児であった私たちは胎内でお母さんの意識をほぼ完ぺきに感じている、という考え方。

胎内にいる時にお母さん自身の苦しみ、不安が大きかった場合、またその頻度が高かった場合、その記憶をすべて胎児が取り込んでしまう、同調してしまうという考え方です。

 

おそらく、なんですが妊娠そのものに大きな不安を抱えているお母さんの場合、お母さん自身「幸せホルモン」の分泌が少ないのではないでしょうか。

 

一般的には「遺伝」と言われるそれらの体質、魂の側面でみるとお母さんと胎児は同じ人生の課題を選択してきた、ということが言えるのかもしれません。

 

今朝、愛猫・海・うみが私のお腹にのっかって30分ほどヒーリングをしてくれていました。

海・うみはこのヒーリングが得意で、これをされると私はお腹の真ん中から癒されまくってしまって。

 

その時に私の中には「幸せホルモン」が分泌されています、「絆ホルモン」とも呼ばれるオキシトシン。

同時に海・うみにも。

 

そうなんです、癒しって片方の問題ではなく、癒す方、癒される方、同時に感じていることなんです。もっとも海・うみは癒してあげるニャ、と意識しているわけではなく、ただそこにいることがお互いにとってベストだと感じられるから私のお腹の上に乗っているだけだと思うんですけど。

 

だとすると、胎児の時に私たちが苦しみばかりを感じ取っていたとは思えないんです、デフォルトは幸せで、けれど時々不安の波が押し寄せて来て。なぜならお母さんは、どんなにそれが不安まみれの妊娠だったとしても、いつもいつも不安ばかりでいるとは思えないから。

たまたま、不安を感じ取るセンサーを優位にセットしてきてしまった母子がたくさんいるだけ、ということなのではないでしょうか。

 

私はすでに両親共に他界しているので確認のしようがないのですが、そのため自分に向き合い、時にインナーチャイルドと呼ばれる存在と繋がり、さらに自分のメンタリティを感じながら、その、胎児の時の記憶をたどろうとしているのかもしれないなと感じ始めています。

 

海・うみの存在をしっかりはっきりお腹の上に感じながら、海・うみは存在しているだけで周りの人や動物君たちを幸せにしているし、また海・うみ自身も幸せしか感じていないんだな。

海・うみはいつも幸せホルモンに包まれているんだな。

 

本当は私たちもみんなそういう存在なんだな。

 

私たちはそこにいるだけで誰かを幸せにしているし、また自分自身も幸せに包まれている存在。

そう意識しなくても。つまり無意識でもそういう力を発揮できる、そういう風に作られている存在。どんな人でも、どんな存在でも。

 

そのことを忘れていたみたいです、私は長い間、ずっと。

それが私の魂の選択だったんですね。

 

遠回りをして、たくさん道草もくって、長い長~い旅を経て、やっと幸せホルモン優位というデフォルトにたどり着けたようです。

 

自分で意識設定をするだけ、幸せホルモンを感じても安全だよ、幸せホルモンを感じる自分でいていいよ、それが本当のあなたなんだよって。

 

この意識設定自体、魂の選択なのかもしれないんですけれど。

 

同じ状況にあってもそれを幸せと感じる人もいれば不幸と感じる、あるいは幸せとは程遠いところにあると感じる人もいます。

もしもそれが魂の選択によるもので、けれど脳からの指令を変えることで簡単に幸せモードを選べるようになっているとしたら、あなたはどんな意識を自分自身に設定するでしょうか。

 

魂が喜びを感じる感覚ってどちらなんでしょう。

 

体験を感じることを先延ばしにする必要はありませんね、その時その時の体験をハートで感じればいい、たとえそこでわいてくる感情が怒りや嘆きや哀しみだったとしても。それを感じてしまえさえすれば私たちのハートは命の喜びをみなぎらせてくれるのではないでしょうか。

 

時に人間は幸せを感じる機能にもフタをしてしまうことがあるようです。

 

幸せになり過ぎるのが怖いから ?

幸せが永遠に続かないことを知っているから ?

それならはじめから幸せなんて感じない方がその後の苦しみが小さくて済むから ?

 

それって苦しみを過大評価していることにならないでしょうか ?

 

苦しみは苦しみであるけれどそれ以上でもそれ以下でもない。

やがて過ぎ去るもの、握りしめさえしなければ。

流れて行くもの。

 

流れに身を任せる安心感を自分自身の中に設定していきませんか。

私たちの命は、同じところにとどまるようにはできていません。

 

毎瞬毎瞬変化が生じています。

 

その毎瞬毎瞬の血のたぎり、フツフツとわいて来るような躍動感。

それは旅立ちの時まで続きますよね、きっと。

 

もしかしたら旅立ちをした後も、肉体ではない何かがずっとなみうち続けているのかもしれません。

 

そんな先のことはハッキリ言ってどうでもいい(笑)。

 

今、この瞬間の生命の躍動感と共にありたい。生命の躍動感そのものでありたい。

 

体験における喜びを積み上げていきたい、と心からそう感じました。

もしかしたら一見不幸、不運、不遇と感じる体験の中にも、喜びの視点はきっと隠されているはずだから。

人生の宝物は、そんなあたりまえの中にたくさん埋まっているのかもしれませんね。

 

自分自身の中から自分自身で発掘する。それが宝物探しの真のだいご味なのかもしれません。

 

  

 

 

 

 

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