今朝の瞑想でエネルギーが変わったことを感じました。
今までも調子の良い時は、体内をかなり微細なエネルギーが流れてくれていました。
今朝のエネルギーは微細とすら感じさせないほど微細なエネルギーでした。
私の体内で起こっている変化、私が感じている変化は、私独自のものではなく、おそらく何人もの方が同じことを感じているのだろうと思います。
ただその感じ方も唯一無二で、その表現の仕方も唯一無二で、そのシェアの仕方も唯一無二。
一人一人がとても稀有でユニークな存在だということを教えてくれているのかもしれませんね、この瞬間瞬間が。
当エッセイを書いていても苦しいんです、心臓が苦しいという感じではなく、エネルギーがパツパツになっている感じです。
昨日大きな変化が起きました。
一つはある近しい存在の旅立ち。
その存在に向けてヒーリングのエネルギーをお送りしている時に、突然意識に大きな波が起こりました。
おそらく私に対してある方が生き霊をおくっていたという事実。
生き霊という言葉はドロドロした感じがしますし、あまり好みではない言葉の一つなのであえて今まで使わないようにしていました。
その方が送って来ていたのは、強烈な淋しさ、孤独感と、そして嫉妬の感情でした。その根本にあるのは強い自己否定の想いです。
生き霊を送られたということは。
私の中にも同じ感情のエネルギーがあるからこそ、なんだとか。
だから私は自分のネガティブを一つ一つ抱きしめ続けてきたのですね、その、共鳴しているだろう感情を統合するために。
心理学の概念でいうと、これは「投影」のことです。
「生き霊」というと少し特別感が漂いますが「投影」というと、それほど不思議な感覚を感じないのは私だけでしょうか。なぜなら「投影」は無意識のうちに誰でも行っている可能性のある行為ですから。
ちなみに「生き霊」を飛ばすのも無意識です、中には意図的に飛ばす場合もあるようですが、それは怨念のようなもの、飛ばしたご本人にとって好ましからざる結果を招くだろうことは推し量られますね。
この状況を例えば霊能者の方に相談すれば「それは生き霊による霊障です、すぐに除霊・浄霊をしましょう」という展開になるでしょうし、カウンセラーの方に相談すれば、「それはご自身が引き寄せてしまったエネルギーです。ご自分に向き合うことから始めていきましょう」という展開になるでしょう、セラピストの方に相談すれば、「インナーチャイルドワークをしましょう、そのためにこのツール、このメソッドが有効です」という展開になるかもしれません。
同じような現象でも、専門ジャンルによってそのアプローチの仕方はまったく変わってきます。
私の場合は、ひたすら自己統合ワークを続けていた様子です、時にセルフ・ヒーリングや瞑想と合わせながら。私の行っている自己統合ワークをもしかしたらインナーチャイルドワークというのかもしれませんし、時に内観という表現をする場合もあるのかもしれません。
私の場合すべてが自己流なのでそれらを専門的に勉強したことはありません、どうやらその時に必要と思える方法論が自然と私の中から出て来てくれるようになっているみたいです。
いずれにしてもその「生き霊」らしき存在はなくなりました、昨日明確に意思設定をして、二度と私と関わることがないように、私自身も生き霊の存在を必要としないように、自己流ながら確固たる態度で臨んでしまいました(笑)。
不思議だったのは、その「生き霊」を飛ばして来た方に対して、怒りも恐怖も憎しみも感じなかったこと。
なんとなくやっぱりね、と感じたことが一つ。
もう一つは淋しがり屋の私、潜在意識内の、その私がたとえ生き霊でもいいからそばにいて、と呼び寄せたんだろうな、と思うことができたから。
とすればすべては自分のせい、自分の責任です。その責任を明確にすれば、今後同じ選択をする必要はありません。
すべては自分の意識次第。
きのうの旅立ちに際し、私は遠くからエネルギーでのお見送りをずっとさせてもらっていました。
ものすごく綺麗なエネルギーを感じさせてもらえただけでなく、おそらくこの「生き霊」の一件もあの旅立ちと関係してのことだと感じています。
私たちは生き霊を飛ばされるだけでなく、飛ばす側になる場合もあるんだとか。
つまり被害者にも加害者にもなり得る、あえてそういう言葉を使うのなら。
お互いさまなんですよね、すべてのことが。
そして見方を変えれば、被害者のつもりが実は加害者だったという場合もあるんです。
被害者にも加害者にもならないように、もしくはそのエネルギーを最小限に抑えられるように、自分の中身をクリアにすること、自分自身を統合していくことが今の私にできるベストです。
「生き霊」を飛ばされたことによって、結果自己統合のチャンスをいただき、時間はかかったけれど一つ一つクリアにさせてもらい続けてきました。
彼女を恨むことはありません、けれど彼女を許すこともありません。
ただ「ああ、そうだったんだ」と彼女のあるがままを受け容れる。
「私は彼女を愛します、許します」とあえて意識をポジティブに向けることはエゴだと思うから。
特に「許します」というのは、自分は被害者だけれどお相手を許します、という気持ちが込められてしまうような気がしています。
他者肯定は自己肯定と同じ。
「ああ、そうなんだ」、ただそれだけのこと。それ以上でもそれ以下でもなく。
「ありがとうございます」とか「愛しています」とか、そういう言葉も自然にわいて来るときに感じればいい。
しいて言うのなら、今は「お互いに対しておめでとう」でしょうか。
生き霊を飛ばして来たその方には多分その方自身のエネルギーが戻っていきます。彼女はそれらのエネルギーに自分で向き合うチャンスをもらえたことになります。
そして私にも私自身のエネルギーが戻ります。さらに私は人生の課題をクリアさせてもらうことができて、「ありがとう」だけれど大きな視点で見れば「おめでとう」なのかもしれないな、と感じています。
いずれにしても淡々と粛々と、ですね。
冷静に判断すると、私はその方のことがすごく好きだったんです、友人として。けれどあまりにも違うところが多すぎて、それは私のジャッジの観点でみると「良いとは思えないことばかり」、だからきっと大嫌いになったんです。
大好きと大嫌いは表裏一体。簡単にコインの裏表が反転します。
けれど今感じることは「好きでも嫌いでもない関係というのが成立するのかもしれない」ということ。
「彼女はああいう人だったんだ、良いも悪いもなく、ただああいう人。お世話になったのは本当だけれど今後お世話になる必要はないな。これからはお互いがお互いの道を進めばいいだけのこと」
そういうご縁もあるのかもしれません。
今回の旅立ち、外にみえる旅立ち、私の内で起こった旅立ち。
どちらもメッセージは、生命の尊厳だと感じました。
私たちは自分の命をトコトン尊重するためにこの世に生まれて来たのではないでしょうか。同時に他者の命に対しても。
誰もが特別で、誰もが普通の存在。
おそらく例外はありません、この宇宙に存在するすべてが「同価値」なのかもしれません。
前エッセイでヨガのポーズのお話をしています。
通常は死体のポーズ、シャバアーサナと言います、屍のイメージのポーズで締めくくられるのが
一般的なヨガ・レッスンです。
先日受けたホット・ヨガの締めは「胎児」のポーズでした、胎児のポーズの他にチャイルド・ポーズというボーズもありますがそれとは別物。お腹にいる赤ちゃんのように右側を下にして丸くうずくまるポーズです。
死体のポーズはヨガでいうところの解脱の意味をあらわしているような気がします。
そして胎児のポーズ、まさに誕生のポーズです。
セラピーの一つに「リバーシング」という考え方があるらしいのですが、これは文字通り「再誕生」の意味なんだそうです。
これが「胎児のポーズ」と繋がっていることに気づきました。
おそらく私は一連の自己統合ワークの結果、生まれ変わったんです、本来の私の姿に。それを導いてくれていたのが主人の父親。
きのう光へと姿をかえた命です。
生と死、どちらも同じ光です、光の視える角度が違うだけ。
もしかしたら私のジャッジのエネルギーももっていってくれたのでしょうか。
きょうの瞑想時のエネルギーが本来の私なのかな。
だとしたら、これから先がかなり楽しみです、もちろん今までも楽しかったけれど。
経験から学んだこと。
「私とあなたはツイン・ソウルのような気がする」とか「ソウル・メイト」だとか前世でのご縁をやたら強調するお相手は、カルマ・メイトの可能性大。もちろんカルマ・メイトがソウル・メイトより劣るという意味ではありません。お互いそこにあるのは強烈な淋しさです。おそらくソウル・メイトの場合、愛でお互いの淋しさを補い合い、一方カルマ・メイトの場合、お互いに依存することで淋しさを紛らわせようとするのかもしれません。カルマ・メイトであっても依存の構造を抜け出すことができれば愛で繋がるソウル・メイトへと転換することができるのかもしれません。
私の場合、「淋しさを感じきる」という人生の課題があったんでしょうね。だからこそのご縁。
今後は新たな喜びを感じつくせるような人生を織り重ねていきたい。そんなご縁を紡げるといいな。紡いでいこう、ゆっくり、じっくり、自分のペースで。