共感コミュニケーションという言葉をご存じでしょうか。
私は個人的にこの言葉がどうもシックリこないタイプでその手の本が手元にあったのですが結局きちんと読まないまま手放しました、今の私には必要ないのかも、と。
きのうのことです。
「かなり」気にいっている、「かなり」素敵だと感じていたある方とのやり取りを通じて、「違う」と感じ、その瞬間ものすごく怒りを感じた自分がいました。
その怒りの大元をたどってみたら、どうやら怒りで感情のフタをしようとした結果らしく、その自分が感じたくなかった感情は何かと探ってみたら「わかってもらえなかった」さみしさのようでした。
冷静になってきのうのやり取りを思いだしてみました。
お相手の方は、私を否定するような言葉は使っていませんでした。むしろ綺麗な言葉を使っていました。
なるほど !
そういうことだったんだ、とわかったのは、その方は言葉としては「共感コミュニケーション」のテクニックを使っているのです、けれどその実は共感ではなく、反発だったり、拒絶だったり。つまり「ブロック」のエネルギーを発していたんです。
おわかりになります ?
言葉はあくまでもテクニックです、コミュニケーションのテクニック。けれどハートは正直ですから、どんなに綺麗なセオリー通りの言葉を使っても、相手にわかってしまうのです、「共感の意思があるかどうか」。
これはかなり以前から感じていたことなんですが、私はメールのやり取りをしても、たいていその方の真意のエネルギーがわかってしまうようになりました。
おそらくスピリチュアル的な表現をするのなら「エンパス」というタイプ。やたら人の意識に共感してしまうのです、共感には、嬉しい共感もあればネガティブな共感もあります。もちろんネガティブな共感が悪いわけではありません。
ということは、きのうの方はご自分自身も「拒絶されて淋しい」という想いをもって私とのやり取りをしてくれたのかもしれません。
「淋しい」同士の共感。
だとしたら、その方が悪意をもって「反発」のエネルギーを発したわけではないことがわかります。それに対して私が怒りを感じる必要性もなくなりました。
そう考えていったら、私の「怒り」と「わかってもらえなかった淋しさ」のエネルギーが自然に昇華されていった様子です。
そっか、きのうの出来事でわかったこと。
〇 私はエンパスなんだ、という事実
そして
〇 人の心の扉はすでに「透明」な時代に入ったのでは
ということ。
エンパスというのは特技とかではなく、体質の問題です、実はエンパスの方はたくさんいると言われています。逆に言うと、エンパス同士は、何も隠し事ができなくなってしまうのかもしれません。
とすると、自分の心をクリアに。
ひたすらそのことに向き合っていくことが大切だな、と感じました。
きのうの方は、私のカルマメイトだったのですね、きっと。お互い、「淋しさ」の昇華というカルマをいただいていたのでしょう。
ありがたいことに私は気づかせてもらえたけれど彼女はどうかしら。
カルマメイトと繋がり続ける、という選択はしなくても良いと言われています。
気づけば「手放し」が起きる。
彼女はそのことを証明してくれたパートナーだったんだ。
けれどもうそのご縁は変わります。
ラッキーな出来事でした、一見「愉快とは思えない」ようなやり取りに思えても。
きょうは葉桜のお花見を一人楽しんできました。
花は見えないけれど、葉桜には葉桜の素晴らしいエネルギーが蓄えられています。
満開の藤の花の下では数匹のくまんバチに遭遇。
くまんバチはまったく怖くなくなりました。
ただそこにいる、という感覚です。
するとくまんバチも私にあえてむかってこようとはしません。
これ、実はエネルギーの法則の中の重要ポイントだと思っています。
恐怖を抱かなければくまんバチはただそこにいてくれるんです。
共感、共鳴、共振の法則ですよね、きっと。
人間同士もそうなのではないでしょうか。相手に恐怖を感じれば、相手も恐怖をもってこちらに意識を向ける。
あ、この人はこういう人なんだ。良いでも悪いでもなく。
そう感じていれば、お相手があえて攻撃のエネルギーを投げつけてくることはありません。もし万が一、相手が攻撃のエネルギーを投げかけて来ても、こちらにそのエネルギーがなければ、そのエネルギーはそのままお相手の元に戻っていきます。
エネルギーの大元は「意識」です。「意識」をクリアにすることがこれからの大きな課題のようです。意識クリア計画のコツは「自己肯定」「自己統合」「自己受容」です。
こうやって何かが一つ一つ解けていくのはものすごく楽しいし、嬉しいこと。
人生の喜びは自分自身の中にある、ということなのかもしれません。
そしてそれらを淡々と実践していく段階へと突入しているみたいですよ。
テクニックとしての「共感コミュニケーション」は、私には必要ないことが判明しました。なぜなら、本当の自分との乖離が進んで、自己否定が強くなるだけだと思うから。
いかに自分に正直に生きるかがこれからの生き方なのかも、と個人的に何かがスッキリした気分です。
きのうの彼女とのやり取りもやはり素晴らしい「Gift」でした。
みぃんな淋しさを抱えて生きているんです、私たちは。
ものすごく愛おしい存在。
あえて共感しようとしなくても「淋しさ」で繋がります、誰とでも。
その時に自分とお相手に愛を感じられる存在であるという事実を認識しておくことでその「共感」に「愛」が加わり、そのエネルギーが自然に循環していくようになるのかもしれませんね。