ここ数年、個人的にどうしても引っかかっていたこと。
それは、悟りとか覚醒とか。
目醒めた方が「私は悟った」「覚醒した」「目が醒めた」と公言されているのを目にして、目醒めていない人間のヤッカミ気分やうらやましさの裏返しだと思うんですが、どうしてもそこに引っかかりを感じていました。
やっと謎が解けました、私なりの謎解きなので、その道の探究者からすればまったくの見当違いということもあるかもしれません。さらに、この後、ずっと私が同じ感覚をもっていられるとも感じられません。ほんの一瞬、今だけの感覚かもしれません。
そのことを大前提においといて話半分以下に捉えてください(笑)。
悟った、覚醒した、目が醒めた、と言っている方は、確かにその体験をされているんだそうです。
ただし、悟った、覚醒した、目が醒めた、と公言することによって、今度は異なる視点でのエゴが動きだしてしまう可能性が大きいんだとか。
例えば、悟った自分を維持しなければならないとか、あるいは自分は悟ったけどあなたは悟ってないよね、という「区別」とか。
もちろんどちらも「悪い」意識ではなく、けれどそれがマインドによる「悟り感」「覚醒感」に進んでしまうことは結構ありがちなことらしいです。
で、複数の本に書いてあったのは、「本当に悟った人は、自分で悟ったとは言わない」ということでした。
おそらくこれは、悟った状態、覚醒した状態がデフォルトになるので、あえて執着に繋がるような言葉は使わないという意味なんだろうな、ということを感じました。
これを考えているのも私のエゴの部分なので、真実が何なのかは別にして。
ではこの流れを自分のこととして考えたらどうなるんだろうと。
私はおそらく「悟り」とか「覚醒」とかに執着していて、そういう状態にたどり着いた方に対して、ものすごく羨ましいという気持ちがあったんだろうな、が第一段階、深層心理の部分です。
ところが、今、別になんとも感じない自分がいるんです。
悟っていようがいまいが、覚醒していようといまいが、神様は平等に愛してくださるはず。
悟っていようがいまいが、覚醒していようがいまいが、その命の価値は、みんな同じであるはず。
だとしたら悟ることや覚醒することで感じられるかもしれない「優位性」みたいなものもまったく必要ないな、と感じました。ここでの「優位性」は、もし私が「覚醒」体験をしたら、エゴが膨らんで「優位性」を感じてしまうに違いない、という、あくまでも私だったらレベルのことです。
正確に把握できていないかもしれませんが、ヨガの考え方で「解脱」というものがあって、人は「解脱」すると輪廻転生しなくてすむようになり、マスター、あるいはヨギと呼ばれる人々はそこを目指すためにさまざまな修行を続ける、という考え方があったように記憶しています。
この考え方だと、修行という選択のできない人ははじめからその対象外になってしまうし、そもそも「輪廻転生」という概念がない人たちも対象外になってしまいます。さらに「輪廻転生」そのものが良くないものとのジャッジが発生していないでしょうか。
つまり、「解脱」に関していうのなら万人に通用する価値観ではないのではないかと感じました。
そして「悟り」「覚醒」もまったく同じ。ある特定の価値観をもっている人たちの真理なのではないでしょうか。それが悪いという意味ではなく。
話を元に戻して「悟った」「覚醒した」「目が醒めた」と公言している方たちの多くは宗教的だったり、あるいは精神世界、スピリチュアルな視点で話をされている方がほとんどです。というか、多分100%そうかもしれません。
ということは「宗教」「心」「精神世界」「スピリチュアル」それらのことにかなりのウエイトを置かれているということ。誤解を恐れずにいうのなら「精神世界」と「物質世界」を並べて、どちらかというと「精神世界」よりに価値観を置いているのではないでしょうか。
おそらく、私自身も視点がそこにあったのだと、やっと気づくことができて、当エッセイの流れになっているような気がします。
それが気にならなくなったということは。
「精神世界」も「物質世界」も価値は同じ。どちらにも「良い」「悪い」はなく、どちらに「上下」もないという感覚を想い出したのかもしれません。
何回か前の当エッセイで、私は多分この後、あまり「スピリチュアル」という言葉を使わなくなると思うと「宣言 !」させてもらったと記憶しています。
スピリチュアルを否定するためではなく、肯定するためにこの言葉を言っていたのですね。
スピリチュアルは決して特別なことではなく、さらに言うのなら正確な表現は「スピリチュアリティ」、そしてすべての人の、ごく普通の生活、日常のすべての中に息づいているもの、それが人々が追い求めているだろう、「スピリチュアル」の本当の姿ではないかと感じています。
あえて「本当の」と書きましたが、きっと「偽り」だったり「ウソ」だったりにも、「本当」と同じだけの価値があるのではないでしょうか。視る人によって角度が変わるものなのかもしれませんから。
私たちには魂がある、そして肉体があり、心があります。
その境はどこからどこまで、と決められるものではなく、むしろ「三位一体」、つまりすべてひっくるめてだよ、の感覚がまだ上手に思い出せていないだけかもしれませんね。私たち、すべてに言えることとして。
私はヨガ歴12年。
だと信じていたのですが、どうやらその11年は「ヨガチックな体操と瞑想」を求めていただけらしいことがつい三か月くらい前にわかって大笑いしました。
昨年の末あたりから、新たなヨガにトライしています。
そうしたら、ヨガに執着しなくていいと私に必要と思える真実が浮かびあがって来てくれました。レッスンとしてヨガは続けていきますし、自己流瞑想も続けていきます。
でもそれは、何かに対して「優位性」を感じたいからではなく、日常的な心身メンテの範疇で十分だし、心身、もしかしたら魂も入るかもしれないけれど、それらが自然に一体化に近づくといいな、あまり期待しすぎずに、程度です。
ヨガのポーズをアーサナというのですが、アーサナの形ばかりにとらわれるのもちょっと違うし、
ま、できる範囲で、楽しめる範囲で続けていこうっと。いやになったらやめればいいし、根性出す必要もないな、と、またまた怠け者の血が騒ぎ始めています。
これでいいんだな、私は。
マイペースこそ、ベストのペースですよね。
頑張りたい人は頑張ればいいし、私のように少し怠けモードがシックリ来る場合は、そうすればいい。マイペースを楽しむことこそが、人生の喜びなのかもしれません。
きょうは春の嵐と言われています。昨日、きょうと、かなり雲の様子がいつもとは違っています。
宇宙のエネルギーって雲の様子にもあらわれるんじゃないでしょうか。
そして宇宙も特別なものではなく、誰もがその一部として存在している。宇宙を特別視する必要もありません、だから自分を特別視したいと思う必要もなくなる。
確か、心理学の一つの系統の「アドラー理論」の中に、自分を普通視することの重要性が説かれていたような気がします。「アドラー理論」は日本人の感性に合わないと言われることもあって、私も100%の共感率ではないのですが、時々、「あ、これってアドラー理論かも」と感じるくらいの共通点があるような気がします。その視点にどこか宇宙を感じるからなのかもしれません。
ここで一気に「アドラー理論」に傾くと、それはそれで何かのエゴが飛び出ちゃうので、もちろんそれはそれでいいけれど、そもそもは「そこそこ加減」でいいんだよ、というメッセージが今、私の元に届いたのかもしれませんね。
「凡人」「俗人」の自分を思い切り抱きしめよう、と今、心の底からそう思っています。私には私の人生の色があるんですからそれを楽しまなくて何が人生なんでしょう、と、これがスタート地点なのかな。
リセット。
スタートの仕切り直し。
人の人生の真似ではなく、私自身の人生。