花まつりにアウトドア太極拳デビュー

きょうはお釈迦様の誕生日だそうです。

私は特に仏教徒を意識することもなく、神道の端っこにいたり、また時にニュー・エイジ系の隅っこにいたり、言ってみれば昔からの八百万の神、みたいななんでもあり傾向のスタンスに落ち着いています。

 

特にお釈迦様に対してだけ、畏敬の念を感じているということはありません。典型的無宗教タイプの人間です。

 

が。

 

一か月半くらい前でしょうか、はじめてお釈迦様について書かれた本を読む機会が巡ってきました。当エッセイでも少し触れましたが、目からウロコの情報ばかりで、良い意味で、けれど距離をもってお釈迦様が好きになりました。

 

私の場合、「お釈迦ちゃま」という感覚。

人の感覚はそれぞれなので認めてください(笑)、私は、なだけですので。

 

どちらかと言うとお友達に近い感覚。畏れ多くも不謹慎にも、という感じですが、私なりに意味のある捉え方ではあるんです。

 

そのお釈迦ちゃまの誕生日。

目がさめた瞬間、確信として浮かんできたんですけど、私の中の「お釈迦ちゃま意識」あるいは「お釈迦さまに象徴される意識的素養」の部分の活性化が始まった感覚を感じました。

 

これはお釈迦様の生まれ変わりであるとか、お釈迦様からメッセージが届いた、とかその手の類の感覚ではなく、自分の中に眠っているお釈迦様的エネルギーの一部分がどうやら少しだけ開いたような感覚です。

 

花まつり、という言葉に象徴されるように、私の心の中の花が一つだけ開き始めて、その花のエネルギーを考えてみると、もしかしたらお釈迦さま的慈愛だったり、落ち着きだったりするのかな、程度のこと。

 

強烈にお釈迦様のサポートが入りました、などというレベルのものではありません。

 

元々私は「蓮」の花との縁が深いようで、何かにつけて蓮の花の精霊のサポートは受けているみたいで、その関連で比較的「ヒンドゥー」系統、そして今度の「お釈迦ちゃま」系統の何かとは繋がりやすい魂のようです。

 

何かが共鳴・共振しやすい。それだけのこと。これは私に限ったことではなく、どんな方でも同じようなエネルギーが複数存在するみたいです。また「お釈迦様」意識的素養はもちろんどなたにもあります。それが活性化するタイミングとその活性の幅のようなものが人それぞれであるということなのかもしれません。

 

その活性化のタイミングと状況が、人によっては「過去生で〇〇として生きていた」とか「〇〇から啓示を受けた」と表現されるレベルの場合もあるようです。

 

私は過去生はたくさんあるだろうと感じていて、特定の誰かに限定した捉え方の情報は入ってこないタイプですし、神託、あるいは言葉によるチャネリング・メッセージなどは特に感じない方なので、そういう表現をされる方の真実は真実として受け止めるけれど、私の感覚はもっとライトというか、たまたま同じようなエネルギーに部分的に振動している、その感覚どまりです。

 

もちろんお釈迦様を冒とくしているわけではありませんし、仏教徒の方に何らかの意識を向けているわけでもありません。

 

私の場合は、すべてのエネルギーが私たちの中に潜んでいる、という捉え方をしています。

私たちの身体は小宇宙で、その中には宇宙のすべてのエネルギーがつまっている、という東洋思想的感覚、そしてホリスティックな感覚です。宗教的イメージとは少し異質の考え方になっているのだと思います。

 

ものすごく長い前置きになってしまいましたが、その「花まつり」の日に、待望のアウトドア太極拳デビューを果たしてきました。

 

家の近くの公園で定期的に太極拳を行っている方々がいらして、その中の一人として参加させてもらったのです。

 

そもそもなぜ太極拳に惹かれたかというと、海外リゾートで朝、誰もいない時に太極拳をしている方に何回か遭遇し、ものすごく優雅でいいな、と感じたことがキッカケでした。

太極拳を始めたのは、確か4年くらい前のことです。

 

昨年の秋口に、太極拳の先生が倒れてしまい、その後フェイドアウト状況でしたが、やっと先日、新たな先生のレッスンが始まり、気分も新たに太極拳との繋がりが復活したばかりです。

 

きょうのグループは、今までも何回か告知のチラシを配布されていたようですがなかなかタイミングが合わず、きょうがはじめてのご縁繋がりとなりました。

 

参加してわかったのは、同じ流派の太極拳でも先生によって解釈が違うんだ、ということです。当たり前と言えば当たり前。ところが実際に一人の先生のレッスンに頼っていると、「それが正解」と思い込んでしまうのが人間の常。

 

そういう意味ではいろいろな先生のレッスンなどに参加した方がバランスが取れるな、と感じました。大切な気づきの一点です。

 

さらに気づいたのは、私はものすごく「自意識過剰なんだな」ということ。太極拳をしている様子を広報用なのか写真撮影をしている方がいらしたのですが、私はそれが気になって仕方ない。逆の言い方をすると自分に集中できないタイプなんだ、と改めて思いました。

 

「自意識過剰」は当然のことながら、自分の中が満たされていない時にあらわれる現象です。何年も何年も自分に向き合い続けて来たつもりでも、まだまだなんだ、ということがわかりました。

 

以前と違うのはそこで「自己嫌悪」に陥らない点。ただ単にそうなんだ、と思えたこと。

 

太極拳を通じてそのことに気づけたことは、ありがたい進歩です、私にとって。

 

それと太極拳に関する基本の説明が書かれたリーフレットのようなものをいただけて、それを読んでふむふむと答え合わせをさせてもらえたことも大きなメリットです。

 

太極拳はドーパミンなどの興奮系ホルモンではなく、セロトニンが分泌されるものだということ。

副交感神経優位のまま運動ができるため、結果自律神経のバランスが整いやすくなるということ。

さらに太極拳は身体が微笑む感覚を味わえるものだということ。

 

自己分析ながら私はおそらくセロトニン欠乏症の傾向があるので、知らないうちにセロトニンを求めてエクササイズ系を実践しているんだなということがわかり、やはり自分の身体のことは自分自身が一番よくわかっている、という一つの答えを見出すことができました。自律神経も今はかなり整ってきていますが、20代くらいまではボコボコに崩れていました。

 

今後もきょうのグループのお仲間に入れてもらうかどうかは別にして、太極拳は私に合ったものだと感じたので、スポーツクラブでの太極拳レッスンを気分一新楽しみたいと思います。

 

お釈迦ちゃまと太極拳は直接関係はありませんが、太極拳は禅とはかかわりが深いとしている説もあるので、巡り巡って何かをたどっていけば、もしかしたらお釈迦ちゃまと繋がる要素もあるのかもしれません。

 

自然の中の太極拳、時々鳥のさえずりが聞こえて、木々の緑も美しく。

本当は裸足でできるともっと気分が良い意味で高揚したのかもしれません。

 

太極拳は経絡を流れる気を鍛錬して、気を養うことがポイントの運動なんだとか。

 

これをマイペースで続けられるってもしかしたらすごい贅沢なことなのかもしれません。

 

お釈迦ちゃまの唱える「中道」とか、全然理解できるには及んでいないんですけど、すこぉしだけ、針の穴くらいの接点はあるのかな。

 

それが本日、「花まつり」の日に感じたちっちゃな幸せです。

 

わが愛犬・華実の名前はもしかしたら、なんですが、この「花まつり」の日に関係があるんじゃないかと感じています。

 

華実・はなみ。華やかな犬生を。華も実もある一生を、と思って付けた名前です。

華実との生活も今年で13年目に突入。

華実のお蔭で私の人生にもささやかながら華を感じられる瞬間があるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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