自己肯定と自己否定。
どちらもすべての人に備わっている意識です。
自己肯定と自己否定のバランスで自己肯定よりに寄っている場合、通常「あの人は自己肯定ができている」とか、「自己肯定力が高い」という言い方がなされます。
私はメチャクチャ自己否定が強く、結果メチャクチャ自己肯定力の低い人間です。
当エッセイでお話しているように、数日前、「私は自己否定が強い」という事実を受け容れたことで自己肯定のコツがつかめてしまったみたいです。
例えばきょう思いついたのは「私はものすごく嫉妬心が強い」という事実。
今まで自分が嫉妬深い方だと感じたことはありませんでした。
けれどどう考えたって「嫉妬心」がゼロの人は存在しないし、嫉妬深いと感じたことがないということは、もしかしたら嫉妬の感情が浮かびあがってくると、必死にそれを抑圧した来てタイプなんじゃないかと感じたのです。
そもそもが嫉妬深いというより、嫉妬の感情を蓄積してしまった結果として、嫉妬深い、と表現できるような傾向になっているのかもしれません。
この嫉妬深いという事実を感じていたら、笑いが出て来てしまったのです。
なんか、嬉しいんです。
おそらく、嫉妬ちゃんという意識のエネルギーが解放されるその喜びを私自身に伝えてくれたのではないでしょうか。
嫉妬ちゃんは嫉妬ちゃんとして、ちゃんと意味があって私の中に存在していたのに、その存在すらなかったもののように扱われてものすごく傷ついていたんでしょうね。
けれど、「ああ、出て来てくれたのね、ありがとう」と私が迎え入れることができたので、それは「Welcome」のサイン。撃退のサインよりずっと嬉しいはず。
誰だってそうですよね、「ありがとう、来てくれたんだ」と感じてもらえることと、「やだ、なんで来たの、二度と来ないで、あっちに行っててよ」と感じてもらえること。前者の方が心地よいに決まっています。中には違う人もいるかもしれないけれど(笑)。
そう考えると、感情とか意識って、個性の違いなだけで、本当に良い、悪いなんて関係ないんだ、ということがわかりました。
私たち人間だって本当はそうなのではないでしょうか。みんな、個性豊かな、尊重されるべき命であって、それに「良い」「悪い」のジャッジをし続ける意味なんて、本来はないはずなのに。
どこかで私たちの因習とか、慣習とか、少し捻じ曲げられてしまったみたいです。
その捻じ曲げられた価値観を一人一人が真ん中に戻していけば、この地球のエネルギーはずいぶんと変わるのではないでしょうか。多分「調和」の方向に。「対立」ではなく。そしてその「調和」は「協調」のハーモニーを奏でてくれることに繋がるのかもしれません。
自己否定。自分で自分を否定すること。
自己肯定。自分で自分を肯定すること。
そのどちらも選べるというのが私たちの人生の醍醐味だったりします。
自己肯定のできる人は他者肯定の能力も上がると言われています。
逆の言い方をすると、自分を肯定できない人は、他者も肯定できない。するとダブルでの自己否定になってしまいます。
自己否定も自己肯定もどちらも誰にでも与えられたプレゼントです。
どちらのプレゼントをチョイスするかは、その人次第。
私は今まで知らないうちに「自己否定」というプレゼントをたくさん使ってきたみたいなので、今後は「自己肯定」を意識的に選びたいな、と感じています。
おそらく、少し慣れてくると、「自己肯定」がデフォルトに定着してくれて、あえて意識しなくても自然に「自己肯定」と共にある形におさまるような気がしています。
きょうの「嫉妬深い」という自分への評価は、次に「私は人から注目されたい」という「承認欲求」という感情を浮かび上がらせてくれました。
全部OK !
「うんうん、そうだよね、ありがとう、出て来てくれて」
それだけでその意識も喜んでくれるし、私自身も嬉しくなるし、なんて素晴らしい循環なんでしょう。
自分を肯定できるのは自分だけ。
誰にでも授けられた神秘の力かもしれませんね、心にミラクルを起こしてくれる力。
そう、誰にでも、です。
私たちはみんなが同じように愛されています。
その愛を全身で受け止める力も授けられています。
両手を思い切り拡げて「ありがとう」って受け止めちゃいましょう、お互いに。今からでも決して遅くはないから。
お金がなくたって、勇気がなくたって、根性なしだって、どんな性格の人だってできる。
「できる」を積み上げることが強力な「自己肯定ツール」に繋がるんですよね、きっと。