ホリスティック・ケア、という考え方に到達して今年で13年目に入りました。
最初からいきなり余談ですが、13、という数字は縁起が悪いと言われていますけど、実はまったく真逆、素晴らしく聖なるパワーを秘めた数字なんだそうです。
さて、ホリスティック・ケアにたどり着くキッカケは人それぞれだと思いますが私の場合は、代替療法の流れで認識していました、できるだけお薬に頼らないで自然なケア方法ができたらいいな、という感覚です。
実践を進めるうちに、意識に変化があらわれ始めました。
ホリスティック・ケアは一般的に心身魂の三位一体での健康観と言われていますが、
魂って何 ? という深い疑問。
そしてどっぷりスピリチュアルにはまりました。
先日ふと感じたのは、健康法の啓蒙段階は終了したのではないかしら、ということです。
私自身、啓蒙したかったのかどうかはわかりませんが、結果啓蒙活動を続けて来たように思います。
健康に関して啓蒙したければ、病気のことをしっかり把握しなければならない。
そのために、もしかしたら愛猫・ぴぴ麿が猫伝染性腹膜炎になったり、愛猫・海・かいが肥大型心筋症になったのかもしれません。
それも彼らからのプレゼント、Giftとして。
二匹共にすでに天国に還っています。
と言ってもぴぴ麿は愛犬・華実に生まれ変わって私のところに再びやって来てくれているんですけど 笑。
その華実は病気と無縁の毎日を歩んでいます。
元々華実は心臓病、アレルギー体質、血小板減少症の因子を抱えて生まれて来たコなのですが、12歳になった今も、毎日未発症記録を更新し続けてくれています。
ということは。ほぼ先天性の病は発症しない、という偉業を成し遂げてくれたのではないでしょうか。
彼のしたかったことは少なくとも健康法のサポートではないということ。もっと命の根幹にかかわるサポートなのかもしれません。
今後、もし何かの病気が発症することがあるとして、それはおそらく後天性、つまり加齢による肉体の変化のあらわれだろうとそんな気がしています。加齢による自然な変化。だとしたらジタバタする必要もないのかな、と。
私は病気体験をしなくては、という意思を持ち続けることはなく、自然に生きる方法を家族全員で楽しめばいいんじゃないかと、そんな意識が芽生え始めています。
人間としてより自然に、普通に、動物君としてより自然に、普通に。
それって心の豊かさだったり、あるいはしなやかさだったりするのかな、と感じています。
ということは、「心豊かに生きようよ」と声をあげることも、もうすでに「自然」ではないのかもしれません。
結果的に何らかの形で「啓蒙」に繋がることはあるかもしれないけれど、声を大にして、「こうなんだよ、これが真実なんだよ」と叫ぶ必要はなくなっているのかもしれませんね。
私は私なりに、愛犬・華実は華実なりに、愛猫・海・うみは海なりに、自然な道を、普通に、淡々と進んでいけばいいのだな、という想いにたどり着きました、わが家の場合、主人も込み、ですが。
力を入れ過ぎる必要もないし、力を抜きすぎる必要もない。
がんばりたければがんばればいいし、疲れたら休めばいい。
私が書きたいのは何だろう、ワクチンはリスキーとか、お薬に頼りすぎないで、とかごはんは大切だよ、とかそういうことはたくさん書いてきたからもういいな、いらないな、私の中で。
わんこってこんなに愛おしいもんだよ、にゃんこサマってこんなに美しい生き物だよ、人間ってこんなにも切なくてやさしい生き物だよ、自然ってこんなにおおらかな存在だよ。
そういうことをつらつらとしたためている方が今の私には自然かな、それが私にとっての普通かな、と感じています。
過去の私があったからこそ、今、こういう気持ちになれたんですよね、きっと。
現実的に、いろいろな課題が山積みだけど、神様は私を愛している、どんな私でも無条件に愛してくれると感じられるようになったので、キリキリしなくても生きていけるし、もし仮にキリキリしても絶対そこには「愛」がある、と信じられる気がします。
ホリスティック生活って、愛を唱えることではなく、ただ愛の中にある自分を感じること、その道筋のことなんじゃないでしょうか。
まだまだ理解はできていないけれど、もしかして老荘思想の「タオ」って、視方を変えたホリスティック生活のことなんじゃないかな、と少しだけ感じる自分がいます。ちょっと切り口を変えているだけ。ゴールらしき場所にたどり着いたら、みんなで「やっぱり一つだったね」って笑いあったりしながら。
私のやっている太極拳もそもそもは老荘思想と深く関わり合いがあって、けれど「思想」って言うとちょっとかたい気がしちゃうのは私がまだ「かたい」「やわらかい」を区別しているからなのかもしれません。
波動という言葉をあえて使うのなら、今、地球の波動はあがっている、と私は感じています。
地球が上がれば、私たちも上がるのが波動の基本性質なのかもしれません。
波動はものすごく自然で当たり前のもの、コト。
だからあえて「波動上昇」なんて口にしなくてもいい時代が来たのではないでしょうか。
ただ普通に、当たり前に、あるがままに。
それを人は「愛」と呼んでいるのかもしれません、追い求め続けているのかもしれません。すでに「愛」はあるのに、そこにあるのに、ただ「愛」そのものなのに。そのことを感じるための道草をしながら。
※ 追記
私の書きたいコト、モノ、がクッキリと浮かびあがってきました。私がこの世に遺したいものは、
今までの健康&幸せ路線の情報ではありません。
お蔭さまでそこはクリアできたみたいです。
もちろん健康も幸せもものすごく大事。
それらをふまえつつもさらに大局的な何かがみえはじめてきている気がします。