ここ数日の流れです、私たちの人生は夢なんかじゃない、幻なんかじゃない、という熱い思いにかられていました。
宗教やスピリチュアルな感覚で捉えると、この世は幻、現実はあってないようなもの、という解釈でお話をされている方も多いのではないでしょうか。
私はこの感覚がどうしても理解できなくて、ええ、頭ではわかるんです、けれどどうしても腑に落ちない。
それは私がまだまだエゴのかたまりだから、とそんな風に捉えていました。
けれど、エゴはなくならないでしょ、肉体がある限り、というのは、それは強い確信となって私の真ん中でくすぶり続けていました。
だから修行する ?
修行僧でもないのに ?
苦行に苦行を重ねて、肉体がありながら聖人や「神」になった人がたくさんいる ?
でもお釈迦様は苦行は否定した ?
あえてそこにトライする意味は ?
そんな感じのことがグルングルンと頭の中でうずまいていました。
4日ほど前でしたか、急に世界が変わって、自分の主権は誰にも明け渡してはならない、たとえそれが「創造主」や「神」と呼ばれる存在だったとしても、という想いが沸き起こってきました。
私たちは「創造主」も「神」も見たこともなければ、実際にお話したこともありません。
多分創造主ってこういう感じ ? 神さまってこういう感覚の存在 ? と頭の中で想像しているにすぎません、あるいは何らかの書物に記されている神様像を自分の神様像として思い描いているか。
実体のみえないものに無理やり人間的解釈をつけているだけではないかと。
宗教に疎い私はそんな風に感じていたのです。
最近は「チャネリング・メッセージ」というものがそこかしこにあふれ、例えばこれは創造主からのメッセージですよ、と高次の存在の言葉としてさまざまなお話を聞くチャンスが増えています。
でもそれって本物の証明は誰がしてくれているの ?
誰が言ってるかが大事なのではなく、そのメッセージが響くかどうか、その響きの部分だけ活用すればいい、というお話もあるみたいです。
ではなぜ、あえて最初に「○○からのメッセージです」という必要があるのでしょうか。
私はチャネリングでメッセージを受け取ったことはなくて。
けれど実は誰でもチャネリングできていると感じていて。
ただ、その相手が本当に「創造主」なのか「神」なのかは誰も確定できないし、さらに言うとチャネリングするその人の波動やバイブレーションによって同じメッセージでもまったく異なる意味を持って放たれて、当然そこには「エネルギーの放射」も含まれていて、とそんな風にも感じたりして。その時点でそのメッセージは正確には「100%高次の存在」からのものではなくなっているような気がしています。
受け取っている人は肉体をもっているわけで、必ず「エゴ」が存在するわけだから。
そう、「わかんないよね」が本当の気持ちなんです、あくまで「私は」。
これは素敵なお話ね、と部分的に活用させてもらって「妄信」はやめよぅっと。
すべて信じない、のではなく、響くとこだけ信じさせてもらいます、というスタンスです。そのために「これは○○天使、あるいはアセンテッド・マスター○○の言葉」とかそういう但し書きはいらないのかも、と。
はい、言葉通りの「いいとこどり」(笑)。結構好きなんです、この言葉。
それで手元にあった天使系、アセンテッド・マスター系などのチャネリング・メッセージの本を処分しました。
さらにアセンションというテーマで書かれた本も。
もし私に本当に必要な情報なら、きっと何らかの形で私の中に言葉として浮き上がってくるはず。
潜在意識、時に集合意識もあるかもしれないけれど、そこから顕在意識として浮かびあがってくるはずです。
その情報だけで十分事足りるのではないかしら、と今までさまざまな情報を目にしてきて、なんとなくそんなところにたどり着きました。
それらの本を処分したところで天使やアセンテッド・マスター系エネルギーのサポートがなくなるわけではありません。
アセンションがてきなくなるわけではありません。
そもそも地球のアセンションはすでに始まっていて、すべての命がその対象となって恩恵にあずかっている、というのが私の今の感覚だったりしています。もちろんそのペースやタイミング、プロセスは人それぞれ。みんな異なるシナリオの元、その人だけのスペシャル・ストーリーを紡いでいるのではないでしょうか。
日本人の場合、「神仏に頼る」という生き方はDNAレベルに組み込まれていて、知らないうちに助けを呼んでいるかもしれないし、知らないうちにサポート・チームを呼び寄せているかもしれません。
そのメンバーの中に「天使」や「アセンテッド・マスター」的存在の「意識体」が組み込まれていたって何ら不思議はありません。
さらに言うと、私は高次の存在は外からくるものではなく、自分の真ん中から湧き出てくるもの、自分の意思で、なのか無意識レベルの何かが働きかけてなのか、呼び出すものなのではないかと感じています。
この辺、少し説明のむずかしいところなんですが、一神教の方々の「神さま」との立ち位置がどうも私の場合は違うみたいなんですね。
どちらが正しいではなく、私の真ん中はそう感じている、というだけなので誰かに伝えなきゃ、という感覚でもありません、ただ私はそう感じます、なだけなんですけど。
そんな、さまざまなことがさまざまな形で私の中で一旦の「終着」の様子です、一旦、とあるのがミソ。
すべて「卒業」という意味ではなく、存在そのものはなくならないけれど関わり方が大きく変わってくるという、新たな道を歩み始めたことに対する「祝福」のようなものなのかもしれません。
困った時に「天使ちゃん、助けて」とお願いしたことはたくさんあるし、エンジェル・ナンバーに支えてもらったこともたくさんあります。
アセンテッド・マスターもそう。
余談ですけど、アセンテッド・マスターは自分のこと、アセンテッド・マスターとは認識していない、という情報もありました。私たち人間が解釈しているにすぎないと。
個人的に私はこの感覚に響いてしまったけれど。
そんなわけで、私は天使系のチャネリングもできないし、アセンテッド・マスターが姿をあらわしてメッセージを伝えて来てくれたことも一度もないけれど、何らかの形で誰かが助けてくれていることだけは確信しています。
その誰か、はきっとその時の私に一番ふさわしい誰かではないかと。
私が「助けて」と思わなくてもいつもふさわしい誰かが助けてくれているのではないでしょうか。
もちろん思いっきり「助けて」と呼んでもいいでしょうし。
でも、その真ん中の「助けて」の気持ちの「主」は絶対に「私自身」。
そこはたとえ「創造主」や「神様」を名乗る存在があらわれたとしても譲らない、明け渡さない。
それを人はエゴと呼ぶのかもしれません。
でも実は創造主は「エゴ込み」の私たちを無条件に愛してくださっているのではないでしょうか。
そして私たちにも「無条件で自分自身を愛する権利と資格と義務があるのですよ」と伝えてくれているのではないかと。
それが私にとっては高次からの貴重なメッセージのように感じられます、とびっきりのメッセージ。
これさえあれば、一生何とかやっていけるような気がするんです、私のような心の弱い人間でも。