ものごとには、必ず「正負」がありますね。
光と影、光と陰。
光と闇。
善と悪、のように。
そのいずれをも天秤にかけてみることが必要なのではないでしょうか。
例えば天使と悪魔。
そのいずれも天秤にのせてみる。
天使と悪魔のバランスが取れているのが「調和」。
天使に偏りがある場合、悪魔に偏りがある場合、自分が「アンバランスなんだな」と気づくサインなのかもしれません。
あまりにも「天使」に傾いていたら。
自分は真実をとらえているのか、と問いただすチャンス。
くさいものにフタをしていないか、いやなものから目を背けていないか。
あまりにも「悪魔」に傾いていたら。
自分は今、何に怯えているのか。
自分を不安に導いているその原因は何なのか。
そうやって、いずれにも、「調和」への調整をするチャンスが隠れているような気がします。
山と谷の法則。
山がよくて谷が悪いわけではありません。
ただ、大きな山があれば必ず大きな谷ができる、ということ。
大きな山の頂上にたった時は、「今、大切な何かを見落としていないか、きちんと現実を見ているか」と問いただすチャンスかもしれませんし、深い谷にある時は、「何を見落としてここにいるのか、何を想い出すためにここにいるのか」と問いただすチャンスなのかもしれません。
それを天秤にのせてみたのが、先の例えば、の「天使と悪魔」のお話です。
宗教的教義による解釈ではありません。
確か、お釈迦さまは瞑想をしている時にさまざまな神秘体験をして、けれどそれは自分の心の迷い、悪魔のしわざだと、自分自身に立ちかえるそのキッカケにしたというようなお話があるように記憶しています、かなりあやふやな記憶です(笑)、ごめんなさい。
つまり、悪魔とは外からの攻撃者ではなく、自分の心の中に潜む「闇」や「迷い」の総称。
それが出て来た時は、真ん中に戻るための何かのモノサシになるよ、という考え方ですね。
「闇」に「光」をあてて、「光」を取り戻す、という。この時の「悪魔」は「光」を取り戻すためのトリガーのようなものでしょうか。
天秤のお話は、なんにでもメリット、デメリットがある、という大前提を心においておくことが大切かな、と感じたのです、私自身のこととして。
長所、短所。
真実、ウソ。
ウソ、と言いきってしまうのは少しまずいかもしれないけれど。
そう言えば、「ウソも方便」って、仏教的教義だと、人をあざむくためのウソではなく、人を安心させるためのウソ、というような意味合いで、悪い意味ではないんだよ、一般的考えとは真逆の捉え方があるんだよ、というものがあるらしいです。
なぜ急に「お釈迦さま」とか「仏教」とかが出て来たかというと、私は「仏教」にほとんど興味がないタイプで、今までそれらしき本は一冊も読んだことがないのですが、ふとしたキッカケでブッダに関する真実、的本を読む機会に恵まれたためです。
今まで、遠巻きに、ですけど見聞きしていた内容とまったく「逆」のブッダ像がその本には書かれていて、まさに目からウロコ状態でした。ものすごく人間的で、あたたかい。
今までの「ブッダ像」とどちらを信じるか、は自分の人生の課題、というフィルターによって変わるものなのかもしれません、けれど、どちらも知ることができたから、自分の意識が少しだけ拡げられたのではないかと思うのです。
どんな情報も100%真実ということはあり得ない、だからこそ、その「裏」に隠された真意を探り出すべき「天秤ばかり」の習慣は有効なのかもしれません。
よく言われる、「ウノミにしない」、ですね。
誰かが言ったことを「真実」と思い込むことは時にして楽な場合もあります、自分で考える必要がないわけですから。
けれどその人にはその人なりのバイアスが必ずかかっています。
例えば医療従事者には医療従事者としてのバイアス。
例えば日本人なら日本人としてのバイアス。
例えば宗教家なら宗教家としてのバイアス。
政治家なら政治家としてのバイアス、です。
かなりバクッとしちゃってますが、「立場が正義」みたいなところは誰にでもあるものだからです。
だからこそ、自分にとっての真実は何か、自分にとっての正義は何か、を見極めるのは決して悪いことではないはず。
だからと言って、自分にとっての真実以外のことを否定、排除する必要はありませんし、自分にとっての正義以外のことを攻撃する必要もありませんよね。
その時の自分にとっての「真実と正義」はこれ、と自分自身で認識すればいいだけのこと。おそらくその「真実と正義」は将来的にまったく異なる視点のものに変わっているのではないでしょうか。
光だけ、善だけ、を見ようとすると必ず自分の中に「アンバランス」が生まれます。
光は闇と表裏一体。
善は悪と表裏一体。
そしてどちらも価値は同じ、フラット。
どちらか一方に肩入れする必要はないはずです、同時にどちらか一方を敵視する必要もないはず。
すべて「○」。