これ、お話しましたか ?
私たちは「解放」の喜びを感じるために、一度「抑圧」状態に身を置く。
「抑圧」には「支配」だったり、「コントロール」だったりも含まれていて、実は自分を「抑圧」しているのは自分自身の意識に他ならないということ。
当エッセイは2018/02/12に書きかけていたのですが、なぜかアップできず。
最近このパータン多いですね(笑)。
で、今朝、翌13日になってものすごく気持ち悪いな、と感じていたら、突然上記のメッセージが浮かんできたんです。
何かと関係のあることなのかもしれませんので、当エッセイ冒頭にこの部分を追加させていただきました。
さて。
「オカルト」「トンデモ」
ここ数年、私が悩まれてきた言葉たちです。
「オカルト」とは。神秘的なもの、という意味合いの言葉なんだとか。
ところがそれを蔑視した時に「それ、オカルトだよ」というような使い方をするらしいのです。
「トンデモ」もそうかもしれませんね。
冷静にこれらの言葉の意味を味わってみました。
たとえ「オカルト」と言われても、別にそれ自体が蔑視されるべきものではない、と自分自身が確固たるスタンスでいればいいのではないでしょうか。
「トンデモ」も同じ事。
目に視えない世界はどうやったって目に視えません、あたりまえ(笑)。
すると科学的脳の持ち主は「非科学的」とか「似非科学」とかそういう言葉を持ち出し、「科学的なもの」の方が上なんだぞ、という意識の有意性をもって、「オカルト」とか「トンデモ」という表現で神秘の世界はウソだ、というような意思表示をするわけです。
それは裏を返せば、自分の知らない、わからない世界に対して、「不安」を抱いているだけかもしれません。
本当はその人の深層心理、潜在意識は、オカルトチックな神秘の世界にとても興味があって、けれどそういうことに興味をもっていることを恥じていて、それで他者に対し、蔑視感情をこめた「オカルト」「トンデモ」という言葉を使っているのかもしれませんね。
その真意の真ん中には、世間的に「良い」「悪い」のジャッジメントの認識が定着していて、世の中の常識的枠からはみ出すとそれは「悪い」ものとしてジャッジされるという風習があるからではないでしょうか。
自分の感じたことを自由に表現することができない世の中。だからなのかもしれません。
さらに気づいたのは、私自身が「オカルト」、つまり神秘の世界についてどこか後ろめたい感覚をもっていたのだろうな、ということなのです。「トンデモ」と言われると、私はトンデモではないから、とムキになりたい自分がいたのかもしれません。私は案外、日常性を重視するところもあるタイプなのかもしれません、深層心理では。深層心理とは社会的通念をものすごく尊重したり反映したりする意識なのです。現実に、私は以前、「スピリチュアル」という言葉、その世界に対して懐疑的な時期もありましたから。
スピリチュアルとスピリチュアリティーはまったく別もので、ところが日本では両者はほぼ同一の意味として認識されることが多いようです。
そのスピリチュアルの特徴でもある神秘的世界をオカルトと呼ぶ人たちもいる。
それだけのことなんですね。
これを心理学的見方をしてみると。
自分が信じたくない世界は自分が信じているより劣っている、という感情は実はその人の「劣等感」から来ているもの。
劣等感のある人が他者に対して優越感を感じたいために「優越コンプレックス」という形が外に現れた時の現象だとされています。
ということは。
仮に誰かが自分を否定するような言葉を吐いたとして。
「あ、この人は本当は私を怖がっているんだ。私を自分より上だと感じているから、それを自分自身で認めなくて否定の言葉を吐いているだけなんだ。なんだ、そんなことないのにね。みんな同じなのに」
とそれでいいんだなとわかってしまったら、ものすごく気持ちが楽になりました。
もっとも当事者、つまり「オカルト発言」をしている人たちは、その事実を絶対に認めないと思いますけど。
子どもの時に、男の子が好きな女の子をいじめるのもそんな感じでしたよね。そこに理屈がくっついた感じではないでしょうか。
であれば。
あ、この人は「オカルト」や「トンデモ」をすごくいけないことと思っているけど、私は別にそうは思わないから関係ないや、で済むことだったんですね。
他者からの自分への否定、ジャッジには同調しない。
それだけでも気分は全然変わってきます。
同調って、あまり良い意味にはつながらないことが多いんです。
だからこそ、私たちはフォーカスするところを自分で選択していくべき。
ちなみに。
私の主人は、「オカルト」発言派。
ところが最近少しだけトーンが変わって来たんです、つまりね、「オカルト」とか「トンデモ」という言葉で他者をジャッジしている人も実はどこかで気づいているんじゃないでしょうか、本当はまったくの「ウソ」なんかじゃない、ただその距離感が自分ではうまくつかめないうちはとりあえず他者をジャッジして数字的強者に入っておいた方が安全だ、と思っているだけなのではないかと。
世の中にこれだけ「魂」とか「霊性」とかそういう概念が拡がって来て、同時に「神秘的」体験をしている人もたくさん増えてきて、それらの人がみんな自己表現をしても安全だ、とわかりはじめて来ている時代の流れがあるわけです。ですから今まで「オカルト発言」で人を攻撃していた人もある日突然、「この宇宙は神秘のかたまりだ、自分の命は神秘そのものだ」とか言い出すこともあるのかもしれませんよね。
もしかしたら彼らは、小さい頃に人と異なる考え方の自分を表現したことがあって、その時にたくさんの人からいじめられた経験があるのかもしれません。
そう考えれば、彼らもまた何かの機会に傷つき体験をした仲間だということです。私たちと同じような心の傷をもっている人たちなのかもしれません。
「大丈夫だよ、人と異なる意見を言っても」
誰もが自由に安全に自分の意見を言える社会になりますように。その一歩を踏み出すために彼らが私たちに勇気をくれているのかもしれません。
それともう一つ。
今世で「オカルト発言」をしている人は、実は前世では、スピどっぶり、神秘の世界に生きていた、ということもあるんだとか。前世でやりきってしまったから今生では、真逆の理論の人生を楽しんでいる。
となったら、別にムキになって「オカルト発言」を捉えなくてもいいのかもしれませんよね。
人の人生、シナリオはそれぞれ。
それぞれのシナリオを尊重して、あ、この人はそう思うんだな、でいいような気がしてきました。
なんだ、すごく楽ちんモードですよね、そういう考え方をすれば。
自分の意見が正しいとか、自分が上だとか、自分が善だとか。
はいはいはい、もういいじゃないですか、と自分に言ってあげましょう、私はそうしちゃいます。
すると心はうんと軽くなってくれます。
心は私の最大の味方ですもの。
わさわざ重い石を抱かせる必要はないんだな~、ね !
私はこのように自分の心を「解放」させるために、言葉でのジャッジという「抑圧」体験を選んだのかもしれません、自分自身の意思で。
そう考えると敵も味方もないし、良いも悪いもないし、みんなそのプロセスの「通過点」にいるだけ、ということがわかるような気がします。みんな仲間です、この地球の構成メンバー。