「浄化するにはそれを感じなければならない」

本日ヨガ・レッスンの日。

 

その中で出て来たのが、表題の「浄化するにはそれを感じなければならない」というお話です。

 

浄化を手放しとも言いますね。

 

私たちは自分に必要のなくなったエネルギーはその時が来たら手放すことができます。

例えば〇〇が起きた時、私はものすごい罪悪感を感じていた。

けれど「今」その罪悪感は手元に置いておく必要がなくなった。

 

ではその罪悪感をもう、手放そう。

 

そう思ったら、一旦その罪悪感を感じなければなりません。逆に言うと罪悪感を感じたら手放すことができる。

 

ただし、私たちの中にはポジティブ思考の概念も根付いています。

ポジティブ思考に慣れ過ぎてしまった場合、

ともすると手放しがスムーズにいかないこともあるかもしれません。

 

もちろんポジティブ思考が良いとか悪いとかのお話ではありません。実際、私もかなりお世話になった思考の形態。だからこそこんなことを感じているのかもしれませんね。

 

例えば、××の時に私はものすごく怒りまくったとします。

けれどその怒りを感じきることなく、抑え込んでしまったら。

 

「ああ、あの人はとってもいい人なの、

 私に気をつかってわざとああいう言い方をしてくれんだわ、

 彼女に感謝しなきゃ」

 

一般に言われるポジティブ思考はこんな感じでしょうか。

 

その時は「怒り」を感じなかった自分を心地よく感じるかもしれません。

けれどそれは一時的なもの、本心は怒りまくった、つまり怒りをしっかりと感じるためにその出来事が起きていたのです。相手の方が良い人だとか、そういうことは関係なく、怒りという感情を感じなければいけなかったからそういう流れになったのです。

 

感情の流れを無理に清流にする必要はありません。濁流には濁流ならではの意味と役割があるのです。その淀みこそがその流れを清流へと蘇らせる、大事な要素になるのですから。

 

あの人はいい人だと思うけど、でも私はあの人のあの言葉にはものすごく腹が立ったわ。

 

そう感じることはいけないことではないですものね。

むしろ、浄化に向かうための喜ばしい感情です。

 

自分はああいうことを言われると腹が立つんだな、なぜなんだろう、そっか、小さい時のあの体験時と同じような出来事だったから、ものすごく腹が立ったんだ。

あの時の私はものすごく淋しくて、その淋しさを周りの大人がわかってくれなかったから、そのことに対して哀しくてやりきれなくて怒ったんだ。

 

ごめんね、淋しかったんだよね、ただそれだけだよね。

 

その淋しさを感じ取ってあげなくてごめんね。

 

そっか、今のこの怒りはあの時淋しさを封じ込めてしまったそのことをしっかりと想い出して、

あの淋しさをしっかりと感じ取るために起きた怒りなんだ。

だったらこの怒りをしっかりと感じさせてもらおう。

 

このような流れになると、その時の淋しさも、またその時感じている怒りも両方手放すことができるようになります。

 

それを浄化、あるいは昇華と言うのではないでしょうか。

感情の淀みとなっていた淋しさも怒りもそこではじめて真の役割を果たしたことになります。

そのプロセスを踏ませてあげること。

それが私たちにできる感情との上手なお付き合いの仕方です。

 

なんだか回りくどい書き方になってしまいましたが、哀しみを浄化するためには一旦その哀しみを引っ張り出してあげなければいけません、

あの時哀しかったな、じゃ、その哀しさにさよなら、と口で言っただけでは真の浄化には繋がりにくいもの、浄化をするためにはもう一度その感情に対峙し、相手を認め受け容れる、そんなプロセスが必要だ、ということでしょう。

 

さらに言うのなら、その浄化させたい感情を自分の一部だと受け容れ、味わい尽くすことが必要。

 

受容しないことには手放しもなされない、ということです。

 

この「受容」の力こそが私たちの自己実現へと繋がっていくものなのだとか。「受容」とはあるがままを受け容れる、という意味ですものね。

 

痛みの感情、つらい感情、嘆きの感情、哀しみの感情。

感情はすべてエネルギーをもっています。

 

その感情を感じないフリをしてもそのエネルギー自体はフツフツと体内で生き続けてしまいます。それがある日突然「病気」という身体現象として爆発することも少なくありません。「病気」は気づきの機会でもありますから、「病気」になったら「浄化」のチャンスと、その淀みの原因にしっかりと向き合いたいもの。

 

まず最初に心のエネルギーの受容を考えること。

 

ヨガ・レッスンの先生の教えてくれた、本日の「肝」、でした。

 

さて、私が教わっている先生はインド式ヨガの先生です。

 

そのご縁のお蔭なのでしょうか、お話の一つ一つが、私にとってはかなり「深い」。「楽しく生きるためのヒント」として先生のお話をありがたく、楽しく拝聴しています。

 

その中でも毎回、素敵だなと感じる言葉、それは「各自の座」という言葉。

 

ヨガはアグラをかくポーズも多いのですが、それも「各自の座」。

きちんとアグラを組める人もいれば私のようにアグラは苦手な人もいる。

アグラが無理なら足をのばして座ってもいいし、

疲れてしまったら途中で足の向きをかえてもいい、

 

すべて「各自の座」。

 

そこで自分自身にどんな変化が生まれるのか、自分自身で観察し続ける。

人と比べない。

ただただ自分に向き合う。

 

ほら、これも人生を楽しく生きるための秘訣のひとつだと思いませんか。

 

私たちは人との比較の中で生き続けて来てしまいました。

本当は比較なんかしなくていいのに。

すべて「各自」。

 

そういう、すごく大切なこと、学校では教えてもらえませんでした。

今、この年になってはじめて教えてもらうことばかり。

 

だからこそ、毎回のレッスンが新鮮で、楽しくて仕方なかったりします。

週に一回のレッスンだけど、自己への解放タイムが確かに存在しています。

きょうのレッスンも気持ちよかったぁ~~。

明日も気持ちいい一日になるといいな。

 

もしかしたら私は子供時代の自分をやり直しているのかもしれませんね、このレッスンを受けることで。自由学校という、私自身の理想の学校で。

 

さてさて、こうやって何かを「書く」と言うのも一つの浄化に繋がります。

きょうの私は何を感じて何を受け容れて何を浄化したんでしょうか。

 

 

 ※当エッセイは2018/02/09に書いたものです。

 なぜか当日アップができなくて、今は翌2月10日になっています。

 

 10日は愛猫・海・かいの月命日。毎月何かが起きるこの日に、今回もまたまたビッグ・サプラ

 イズ。

 

 実は昨日からものすごい手放しが起きていたのです。

 

 私の中の分離意識がまたまた「浄化」されていきました。

 

 ということは。

 

 当エッセイで私は一旦「分離」の状態に陥り、それを感じきることで新たな「統合」が

 進んだということになるようです。

 

 ネガティブな感情から内なる平和への感情移行、変容のプロセスがまたまた一つ起きました。

 

※追記

 

 たった今、ハートチャクラ、ノドのチャクラ、第三の目、クラウンチャクラまで淀みなく繋がっ

 た様子です。

 

 私の最大のカルマは、東洋医学で言うと「心」「肺」に関係していて、チャクラで言うと「ハー

 トチャクラ」に大きな淀みがありました。

 

 当エッセイ、文章がスッキリしていませんね、なぜなんだろう、うまくまとまらないと感じてい

 ました。

 ところがたった今、因習を打ち破り、自由なコミュニケーションというメッセージが浮かんでき

 たのです。

 

 ハートチャクラに関しては肺に関係している「哀しみ」の感情の「再認識」「再確認」をここ一

 時間くらいしなければならない状態でした。

 

 その「哀しみ」を感じきらないと文章がうまくまとまらない感情も抜けません。

 

 そして「哀しみ」を感じ切ったと、その途端、「因習を打ち破り、自由なコミュニケーション」

 という言葉が浮かんできたのです。

 

 まさに表題通りのことが私自身に起きました。

 

 このまとまり観のないエッセイも今の私自身のあらわれです。これ以上の推敲をしないで、

 「読みにくいまま」アップさせてもらいます。

 

 いゃあ、実に読みにくい (笑)。

 

 すごいライブ感覚でのエネルギーの渦に巻き込まれた気分です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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