「切り捨て」
そう聞いて心地良さを感じる方はほとんどいないのではないでしょうか。
一般に「切り捨て」とは、自分に必要のなくなったものを捨て去る、というような意味だからです。
以前、ある人に言われました、「あなたはそうやって自分と合わないと思う人を切り捨て続けているのよ」と。
そのことにずっと執着があったみたいです、
私は人を切り捨てる冷酷な人間なんだ、
同時にものすごい罪悪感を感じていたみたいです、
私は愛の人とは程遠いと。
たった今、「ううん、違うよ、彼らは切り捨てさせ屋さんだったんだよ」というメッセージが浮かんできました。
かなり前のこと、「わかれさせ屋」という職業がはやったのを覚えていますか。
腐れ縁などでなかなか自分では別れられない人が第三者の力を借りて、その腐れ縁を断ち切る、というような、そんなビジネスを創り出した方々の総称です。
実はゴーストライター時代に、わかれさせ屋さんの取材をさせてもらったことがあるんです。その時の経験が今、ふと浮かんで来てくれたみたい。
こうやって過去の体験は「いつか」必ず自分の役に立ちます、人生にムダなし、なんですよね、きっと。
さてさて、私自身の切り捨て体験を振り返ってみると。
例えば。
私はその会社での仕事が自分に合わないな、と思うと、自分でどんどんそのキャリアを捨てる、という生き方をしてきました。
日本人ならではの終身雇用とは程遠い生き方です。
そのたびに周りから「我慢が足りない」とか「わがままだ」とか、「そんなことをしていたら今に誰も相手にしてくれなくなる」とか言われたものです。
人間関係でもそうです、もう我慢の限界だ、楽しくない、と思うと、自分からその人との縁を切ろうとするタイプです。その結果、たとえ「孤独」を感じることがあったとしても、それは一生続くものではないので、そのままなぁなぁの関係を続けるよりはずっといいと。
でもその実、私は、「見捨てられる恐怖」「切り捨てられる恐怖」を事前に回避するためにそう仕向けていたのかもしれない、自分自身で、とも感じていました。
ところが。
意識の反転です、いえいえ、私は「切り捨て」「見捨て」体験にまつわる「罪悪感」を解放するために、数々の一見「切り捨て」体験を積み重ねてきたのだな、とわかりました。
そう、あの体験時に「あ、これはこういう流れを大いなる存在が望んでいることなんだ」と私に気づかせるために、そのお相手となる存在が力を貸してくれていたのです、「切り捨てさせ屋さん」として。
私が感じるべきは「罪悪感」ではなく、その時が来た、という安堵感と信頼感と感謝だったんだ。
彼らは、私の「切り捨て」「見捨て」体験に関わる、パートナーだったに過ぎません。
彼ら自身もまた、私に「切り捨てさせる」という体験をすることで彼ら自身の「解放」のチャンスを得ていたのでしょう。
お互いに「切り捨て」「見捨て」体験に関わることで自分自身の前進のチャンスを得ていたのではないでしょうか。
なぁんだ、彼らは私のパートナー。
私だって彼らのパートナー。
どっちがよくて、どっちが悪いとか、どっちが正しくてどっちが間違ってて、とかどっちがより愛に満ちていて、とか全然関係ないことでした、
お互いに対等、お互いに公平、お互いに公正、ですよね、どう考えても。
もしも私と同じように、自分が「切り捨て」「見捨て」体験の加害者だと思って悩んでいる方は私みたいな考え方もあるかもしれませんよ、ということで。
同時に、自分は「切り捨て」「見捨て」体験の被害者だと思って悩んでいる方は、いやいやそんなことはないかもしれませんよ、という視点もあるのではないでしょうか、ということで。
被害者と加害者、本当はパートナーなんです、エネルギー的には。
そして。
自分は被害者だと思っていても、他の立場の人から見ると加害者になっていることも実際にはたくさんあります。
被害者だと思っていた方が楽な場合が多いのではないでしょうか、加害者であると感じるより。
そう考えると、被害者も加害者も本当は表裏一体のエネルギーなのかもしれませんね。
「切り捨て屋」さんもいれば「切り捨てさせ屋」さんもいる。
どちらもがあって「切り捨て」体験に関わるネガティブなエネルギーが昇華されていくのかもしれません。
当エッセイを書いたらまたまた一つの「切り捨て」体験のチャンスが来てしまいました、
それは。
パソコンのプリンターが突如、壊れてしまいました !
私のアウトプットに関する何らかの「罪悪感」「停滞感」の解放の時が来たよ、という祝福のサインです。
これを悲劇と捉えるか、「やった~ !」と捉えるか。
もしかしたら、「切り捨て」 = 「いけない」の刷り込みがあるのかもしれないですね。
今、打ち込みの途中で「キリステ」と出ました、ん ? キリストと関係あり ?
またまた楽しい展開の兆しです(笑)。
※ 追記
ビックリ !
キリストと関係あり、はきっと自己犠牲に関係あり、と感じていました。ここ数日「自己犠牲」に意識がフォーカスすることが多くて、そろそろ「手放しなんだな」と感じていたのです。
「自己犠牲」に関わるネガティブ、キリストに関わるネガティブ、私の中での、それらが同時に手
放れしてくれるチャンスなんだろうな、と。
すると !
私の中の「見捨てられ」の痛みの終了だ、
と言うことは。
大いなる源との「分離」意識の終了だ、と。
私たちは「統合」の道を突き進むために「分離」の体験をしているに過ぎません。
「統合」が良くて「分離」が悪いわけではなく、「分離」があるからこその「統合」なんです。
「統合」と「分離」も表裏一体。
と、ここまで一気に浮かんできたので、パソコンに向かっていたら。
なんと ! 壊れたはずのプリンターが勝手に動き出しました、ブーンと作動音の前の何か引っかかりを示す鈍い音を立てて。
いよいよ、たくさんの「解放」 !
ちなみに。
分離意識の終了と言っても分離意識がまったくなくなるわけではありません。肉体がある以上、分離意識はあってあたりまえのものだからです。ただし今までは「分離」に大きく傾いていた私のハートの中の天秤が少しだけ均衡に近づいてくれたということです。
これからも分離と統合のハザマをフラフラ、ユラユラしながら、自分なりの「調和ポイント」を探していくだけ。
これが「中庸」の本来の意味、らしいですよ。
※ 追々記
意識の反転シリーズ。
「喜捨とは、喜んで自己犠牲への執着を手放すこと」
既存の概念とまったく「逆」の説が浮かんできました。