スポーツクラブの帰りに「赤梅」に遭遇しました。
「赤梅」の花言葉は「忠誠」「優美」「優雅」なんだとか。
心弾む言葉ばかりですね、「忠誠」は誰かに対して、というより自分自身に対して、だと感じました。
スピリチュアル的には、「世の中の立て直し」の予言という解釈もあるそうですよ。
さて、1月9日に以下のエッセイをアップさせてもらいました。
どうやら昨年の11月以来続いていた「自己流断捨離」の波が一段落ついたようです。
2か月半くらいの期間でしょうか、「自己流断捨離」のお蔭で家中がスッキリしました。
資料として手元に置いておいた書籍類もほとんどなくなりました。
着なくなった洋服や日の目 ! を浴びなくなったアクセサリーや雑貨類などの大半がわが家から旅立ってくれました。
モノが少なくなったお蔭で家具や家電、床、壁なども綺麗に磨かれ始めています。なかなかすごいことが私の人生に起き始めているみたいです(笑)。
断捨離の波は二巡目に入り、さらにシェイプできるかな、と感じていたところ、急にモチベーション・ダウン。
なぜ ?
これこそが断捨離効果だったのです。
「断捨離」の提唱者である山下久子さんによると、毎日何かを捨て続けることがベストなんだとか。
普通の生活をしていても、毎日ゴミは出ます、何かしら処分するものは出てきます。
意識的断捨離でなくても。
自己分析をしてみると。
私の場合、意識的に断捨離をしようと心がけての行為だったのではないかと。
これって実は「断捨離」という概念に執着しているのではないかしら、と感じていました。
言葉を変えると、「毎日何かしら捨てないといけない」という恐れによる行為。
例えば「瞑想をしよう」と思いながらの行為=瞑想は厳密に言うと本来の瞑想ではないのではないかと。意識を「瞑想」にフォーカスさせている時点で「エゴ」が入っているのではないでしょうか。
「奉仕をしよう」と思いながらの行為は無為の行為、無私の行為ではなく、「エゴ」による行為なのではないかと。
宗教の教義には疎い私ですが、なんとなくそんな感覚が浮かびあがりつつあっての毎日でした。
「エゴ」は悪いものではありません。が「エゴ」が肥大化し過ぎるのは好ましいことではありませんものね。
ここ一週間くらい、特に「ヨガ」と「禅」の内容が気になってしまって、自分なりの解釈ではありますが、なるほど !
「ヨガ」も「禅」も宗教がベースなんだ、と改めてそう感じたのです、禅は日本の文化に今なお大きな影響を与えている素晴らしい考え方だと思いますけど、個人的になぜかハートに響くところはあまりなくて。
宗教の大元には「禁欲」「試練」など、人間の欲望をなくしなさい、執着をなくしなさい、という教えが息づいていることに気づきました、良い、悪いではなく、そこはもう卒業してもいいんじゃないかしらと感じ始めたみたいです、私の真ん中が。
禁欲生活って、欲を禁じるわけです、でも人間であれば欲があるのはあたりまえ、執着があるのはあたりまえ。
欲を禁じ、執着を禁じ。
それって欲や執着の抑圧にならないのかな、と一般人の私は単純に素朴にそう感じてしまいました。
もちろん宗教的「行」を否定しているとか、宗教そのものを否定しているとかそういうことではなく、けれど私にはそういう「行」は必要なくなったな、と。
そうは言っても私たちの生活の中には宗教的教義、またそこから派生する生活習慣のようなものはたくさんあるので、すべて切り離して生きていくことはできないでしょうね。無理に切り離す必要もないと思いますし。
一方、無理を強いてまで「禁欲生活」を手に入れる必要はないし、「執着」をなくそう、なくそうと努力する必要はないなと感じたのです。
欲を禁じれば欲は膨らみ、執着を攻撃すれば執着は肥大化する。
それが人間の定めではないでしょうか、エゴが膨らむ、他の方はわかりませんが少なくとも私個人はそういうタイプだと感じています。
なんでも「断捨離」とは山下さんが「ヨガ」の「行」から思いついたメソッドなんだとか。
また山下さんご自身、禅の「行」にも深い関心をもっている方のようです。
雑誌のインタビュー記事などを2~3拝読しましたが、その意識のベースはかなり「禁欲」チックであることに気づきました。行者さんレベル。だからこその「断捨離」のリアリティなのかもしれません。
その道が自分にとって最適&快適な場合はそのまま継続モードでいたのでしょうが、ある日突然のモチベーション・ダウンということは、「もうそろそろ新しい道を歩き始めてもいいんじゃない ? 」という内なる自分からの祝電が届いたように感じられたのです。
今まで何回も挫折した「断捨離」の道。
去年の11月、突然自己流ながらいわば「断捨離道」のようなものが見えて来て、一気に爆走した気分です。
あの爆走があったからこそ、「断捨離道」の「断捨離」ができたのだと今、気づきました。
これからもボチボチペースでの「自己流プチ断捨離」は私の一部としてその光を放つのかもしれません。
ただ私の場合「行」という大それたものではなく、自分のハートのお掃除、くらいの感覚です。
身体をデトックスするように心にもデトックスは必要。
その中には多分お掃除も含まれます。
もしかしたらそれは「自分磨き ?」、なんてことを思ったりしながら。
お掃除をすると自分が磨かれるって、ちょっとお得な気分。
そのペースは、「マイペース」
毎日ではなく、したい時にできる範囲。
もしできなくてもOK ! の範囲でのお付き合いを続けていけたらなと思います。
そう、思い切りハードルを下げました。かなりライトな感覚です。
この気持ちの余裕も、2か月の爆走期間のお蔭であることは言うまでもありません。
きょうはヨガ・レッスンの日でした。
先生曰く、
「正解はないんですよ、みなさんそれぞれの良い塩梅を探ってくださいね」
(あれ ? ここに「梅」の字 ? )
「頑張らなくていいんですよ」
「人と比べなくていいんですよ」
すべて私にはありがたい言葉ばかり。
これまでどれだけ人と比べて、人と張り合うようにしてがんばって正解を追い求めてきたんだろう。
多分、先生も同じタイプだったのでしょう。だからこそ、そういう言葉が出てくるのではないでしょぅか、もしかしたら先生はご自身に向けての言葉を私たちに聴かせてくれているのかもしれません。
ヨガ歴12年。
自分の中に「ヨガとはこうあるべきもの」というような思考のかたまりができていたように感じます。
どんなものでもそうかもしれません、流派、流儀はたくさんあるのです。
自分に合うものだけを「正しい」と思う必要もないですし、またその時々で「良い塩梅」は変わるという事実を受け容れつつ、自分自身と共に歩む。
すべては流れているのですよね、循環しているのです、この宇宙のエネルギーは。そこに身を任せていればいいのです、きっと。力を入れず。
きょうのポイント。
〇 断捨離への執着からの解放
同時に
〇 ヨガへの執着からの解放
があったことになりますね。
解放とは言葉を変えると縁の形が変わったということ。
縁が完全に切れることはないけれど、まったく新しい結びつきが生まれたということなのでしょうか。
多分。
〇 瞑想への執着からの解放
も加わっています。
ふふ、「行者」チック生活、卒業 ! のサインですね。
なぜかと言うと、「普通に生きよう」という想いが強く湧き出て来たから。肉体として。
欲を大切にしようと。
人間である以上欲はなくならないという事実を抱きしめながら、恥じることなく胸をはって。
それくらい私は「禁欲」という概念に執着して生きて来た、ということが今、ここまで書いてきてはじめてわかりました。
大きな発見。
これこそが2か月半の「自己流断捨離」の最大の成果なのかもしれません。
「禁欲主義」を手放すために「禁欲」の教えを遂行した ?
なかなか興味深い展開ではないでしょうか。
「断捨離」という概念を世に知らしめてくださった山下久子さんに感謝。
※ 山下さんのご著書は、実は二冊しか読んでいません。10年くらい前に買った本くらいで
す。
素晴らしい概念だと感服したのですが、その文体が理路整然とし過ぎているように感じられ
て私には「腑に落ちる」までの理解はできなかったのです。山下さんご自身が理路整然とし
た生き方を望んでいる方で、当時の私の心と頭は「グチャグチャ」だったのかもしれませ
ん。
そんなご縁もあるんですね。どちらも大切な、光。