松葉づえが外れた、のです、きょう。
えっ ? ケガしてたの、って感じですよね。
いえいえ、人生の松葉づえ。誤解させてしまってすみません(笑)。
三か月くらい前だったかに気づいたんです。
私たちの周りには人生をサポートしてくれる松葉づえがたくさんあるな、と。
例えば健康系でみてみましょうか。
お薬、サプリメント、ホメオパシー。
私の中ではこれらは同列です。
お薬の中には漢方薬も含まれるかもしれませんね。
これらは健康に自信のない時、健康を害した時の「松葉づえ」、
そんな考え方が浮かんできました。
「松葉づえ」なのでそれを外すタイミングは自由意志。
「あ、もう平気かな」と感じたら松葉づえは外せます。
逆に本当は健康になっているのに心に不安がある時は、
「ダメダメ、まだ松葉づえは必要だわ」
松葉づえだから、本来は一生必要ない、というか。
一生使わなくてはいけないのはレアケースではないでしょうか。
子どもの時の自転車の補助輪も同じ感覚ですよね。
自分が「もう平気」と思えば外せるし、「まだ怖いよ、不安だよ」と思えばしばらく補助輪に頼ります、でもその時が来たら補助輪は外せます。
私の身の回りにもたくさんの松葉づえがありました。
お薬
サプリメント
ホメオパシー
それ以外にも
バッチ・フラワー・レメディー
パワー・ストーンなど石系
お香など浄化系グッズ
などなど。以前お話したこともあるんですが、今はこれらのものはすべて卒業させてもらいました。
すべて「自由意志」です、「もう大丈夫だな」と感じることができたので。
きょうの松葉づえは「コンプレックス」の感情でした。
私たちにはたくさんの欠点があって、それが劣等感に変わって、それがコンプレックスになって、
そのコンプレックスをバネにして何かを習得しようというモチベーションに繋がったりすることがあります。
コンプレックスそのものは悪いものではありません。
でも。
コンプレックスの大元は「不安」、「私は誰かと比べて何かが足りない、私は不十分だ。その不十分を埋めるために、何か松葉づえが必要だわ」と、すべての大元が不安モードにあることに気づきました。
もちろん不安もいけないものではないけれど、できれば愛モードで生きたいな、愛モードが何かのモチベーションになるといいな、と。
「私は健康に不安があるので松葉づえはまだまだ手放せません」
から
「私の授かったこの力を何かの役に立てられたらいいな」
への移行。
つまり自分に足りないものへの不安から自分の中に満ち満ちているものへの安心感へのモード変更が起きました。
そうしたらなんと !
外に出たら、まず一本の杖をついて歩いている方二人に遭遇。
その後、なんとなんと、二人も松葉づえをついている方に遭遇してしまったのです。
「あ、松葉づえ卒業のサインだ」
自然の中にも天からのサインがあふれているように、私たちが目にするものすべてが天のサインの顕現化されたもの。
それを見ることによって、何を感じるかは人それぞれ。
私はきょうのメッセージは紛れもなく「松葉づえが外れたよ」というサインだと感じました。
コンプレックスというのは他者との比較がベースになっています。
コンプレックスを克服できたとして、その先に優越感が生まれてしまったら。
そしてその優越感が誰かの登場でくつがえされてしまったら。
またまたコンプレックスと向き合うことになります。
そう、コンプレックス、正確には劣等感と優越感は表裏一体。
つねに誰かとの比較の中で自分を見ることによるもの。
そもそも「私はあの人より〇〇〇という点で劣っている」と感じる必要があるのでしょうか。
私たちは唯一無二の存在。
私たちの中には唯一無二の価値がたくさんつまっています。
たとえ欠点と思えるところでもそれは私たち独自の個性に他なりません。
〇〇ができないけれど△△は得意だわ。
それだけで十分ですよね。
得意ももしかしたら人と比べて、の意識かもしれませんけど逆に言うと得意なものがないってあり得ないのではないでしょうか。
どんなに「自分には長所がない」と思い込んでいたって、それはその人の思い込みなだけで、人から見たら素敵な長所がいっぱいある、というのが私たち人間というものです。
私は身体がかたいんです、これはある意味、欠点。
でも心までかたいかというとそうでもありません。
すると私の長所であり、個性は、
心と身体は繋がっていて身体はかたいのに、なぜか心はそれなりにやわらかい、
となってそれに対する「松葉づえ」はいらなくなります。
無理に身体を柔らかくしようと思わなくても良い、ということになりますね。
こうやって少し視点を変えてみると、本当に必要な松葉づえって、結構絞られてくるような気がします。
もちろん「松葉づえ」が必要な自分もちゃんと受け容れて。
「松葉づえ」そのものに「良い」「悪い」はありません。
必要であれば必要なだけお世話になればいいんですよね、きっと。
明日1月26日は天国在住、神猫・海・かいとこちら在住神猫・海・うみのお誕生日です。
おそらく明日いっぱい、私の中のたくさんの「松葉づえ」が外れることでしょう。
なんだろう、楽しみ ! 以外のなにものでもありません。
そうそう、そういえばさっき「ヨガへの執着」という「松葉づえ」が外れたばかり。
ヨガって、そもそもカースト上位の貴族クラスの男性の修行ツールとして生まれたものなんですって。
個人的に修行ツールにはあまり興味がないし、カースト制度で苦しんでいる女性のことを考えると、そこに執着する必要性が感じられなくなってしまいました。もちろん今のヨガは女性向けにアレンジされた、エクササイズ感覚の強いものが主流になってきているらしいんですけれど。インドヨガと西洋ヨガの違いがそこにはあるようです。
いずれにしても私の中でどこか「ヨガ」は特別だったんです、宇宙との同化、という感覚が大好きだったので。
でもそれがそもそも男性優位の中で生まれたものなら、どうなんだろう、という気がしました。それとも今は融合され、調律されつつある段階なんでしょうか。
(お話が複雑になりすぎるので、ここではインドの宗教観、身分制度などデリケートな課題は横に置かせていただきます。ちなみに私はインドとの関わりは深いようでヒンドゥー系の神様のエネルギーにはかなりお世話になっているという現実もあります)
ということはもしかしたら。
「男性性」「女性性」の統合終了のタイミングだよ、という祝福のメッセージが届いたのではないのかと。
私の中のアンバランスが「ヨガ」という松葉づえを必要としていたみたいです。
「ヨガ」は卒業ではなく、関わり方、感じ方そのものが変わるんだな、と。私独自の「ヨガ観」が私の中で創造されていくんでしょうね、きっと。
1月13日のエッセイでこんなお話をしていました。
↓
ヨガ 元年 !
ふむふむ、宇宙の流れはこうやって繋がっていくみたいです。
多分。
意識のリセット、調律、これも「松葉づえ外し」の一つなのではないでしょうか。
これ、私の得意分野かもしれません。
※2018/01/27 追記
松葉づえが外れた
↓
自立
↓
海・かいが天国に還る時のメッセージ
「自分の足で立て」