前記事でお話したように、どうやら私は「注意欠陥障害」の傾向があるようです。正しくは「注意欠陥多動性障害」ADHD と表記するらしいのですが、集中力、注意力、衝動性、多動性を自分自身ではコントロールしにくいタイプの脳のことをそう呼ぶそうです。
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さっそく、大人向け「ADHD」の本を読んでみました。深刻なお悩みの方には気に障る表現かもしれませんけど、爆笑、爆笑、爆笑の嵐です。「そうそう、これこれ。これ、私のこと」と、なんていうのか、新しいお友達にでも出逢った気分。
私の読んだ本のポイントは「ADHD」は決して病気ではなく、脳の働き方のクセとなっていました。その働き方が慢性化すると日常生活に支障が出かねない、だからできるだけ改善していこう、という見解でのお話です。
私自身は。
脳の個性だから思いっきり尊重して抱きしめちゃおう、という結論に至りました。もちろん改善の
仕方など参考になる点はたくさんあるので無理のない範囲でやっていこうとは思っていますが、がんばって、あるいは無理やり改善しようとは感じませんでした。
なぜかと言うと。
今、断捨離にトライしていて、時々整理の仕方の頭の「整理」がつかなくなったりするんですが、
これが私だ、と思うようになったら、なんだか気が抜けてしまったんです。
今までの私。
◎ 整理整頓が苦手
◎ いろいろなモノを衝動買いしてしまう
◎ 大きな執筆モノが入ると家事がおろそかになる
◎ 書類書きなどが苦痛
などの傾向がありました。そんな時、私は徹底的に「自己否定」「自己批判」
「なんでうまくできないの ? 」
という罪悪感というか、自分自身を痛めつけていたんです。
でも、脳の機能がそうなっていて、私は怠けているわけでもないし、ものすごく「問題児」というわけでもないし、もしかしたら知らないうちにたくさんの人に助けてもらっていたのかもしれないけど、それって恥ずかしいことでもなんでもなくて、あえて開き直るなら「お互いさま」ってことなんじゃないのかな、とかなり自己都合的な想いがひらめいてしまったのです。
私は助けてもらう立場。
どなたかはわからないけれど助けてくれる立場。
魂的、エネルギー的に言うと、助けてくれる立場の方は私を助けることによって波動が上がります。
私は助けていただく、という機会を提供させてもらったことでお相手の方の波動上昇のお役にたっているということです。おそらく助けていただいた私自身も成功体験を積み上げることでやはり波動は上がるのではないかとの解釈をしています。
これってすべての人間関係において言えること。
たまたまどちらが助けてもらう立場で、どちらかが助ける立場になっているけれど、お互いお相手がいなければ成りたたない関係。「助けてもらう」「助ける」その関係はその時々でいったりきたり。また別の人との関係でもいったりきたりをしているのかもしれませんよね。
もしそうなら、エネルギーはきちんと循環できているわけですから、助ける方が上で、助けてもらう方が下というような上下関係は存在しません。助ける方も助けてもらう方も対等。エネルギーレベルでは同等の価値があるということです。たまたまお役目の違いがあって、けれどお互い同じところを進んでいる、魂のパートナーです。
私のような脳の働きグセのある方は、私自身がそうだったように、「できる」「できない」でモノゴトを考え、「できないことはいけないこと、恥ずかしいこと」と自分で自分をジャッジし続けているのではないでしょうか。
私はこの「できない、私は人より劣っている」という瞬時の判断を手放すことができました。あ、できなかった。私の脳はそうなのね。じゃ、できる方法論を考えればいいんじゃない」というように。
実はどうやら私は注意欠陥障害の傾向があるらしいと主人にカミング・アウトしたところ、「君くらいの人はいっぱいるし、もっとできない人がたくさんいるんじゃないの ? 障害とかそんな言葉を使って現実から逃げようとするなんて卑怯だよ。治せるところはきちんと治さなきゃ」との言葉がかえってきました。
「私がもし子供でお父さんがそんなこと言ったら、子供はすごく傷つくよね。親がちゃんと自分のことを受け容れてくれるから安心して子供は自分のままでいられるんじゃないの ?」
私の反撃です。言葉でのやり取りはここでおしまい。
その後主人に大きな変化があらわれました。いつもなら私が家事よりもお仕事を優先しているとブウブウ文句を言っていたのですが、「しょうがないなぁ、なんでオレがやらなきゃいけないんだよ」と言いながらも食後の食器洗いなど、すべてやってくれたのです。
お互いさま。
主人が不得意な直感・直観は私が大得意なので、私でなければ感じられないことを主人に伝えることはしょっちゅうです。
「そっか、なるほどね」
と主人も「一応」、私を尊重してくれます。
脳の働き方のクセは性格的なクセとも相通じるところがあるのかもしれません。性格は変えられないかというと実は変えられるモノなんですよね。それと同じように脳の働き方のクセも、変えられるものなのかもしれません。
でもあまりにも「困ったモンだ」と思いすぎなくてもいいのではないでしょうか。きちんと意味があってこの脳をいただいたわけです。その意味、恩恵にフォーカスしながら、周りに協力者をはべらせながら(笑)、ほどほど加減で進むと心のストレスは少なくなるかもしれません。
あなたにはあなたにしかできないできないことがあります、もちろん私にも。
おそらく世にいう天才とか偉大な芸術家とかは「ADHD」傾向の人、多いような気がします。たくさんの周りの人に支えられて、たくさんの偉大な発明が生まれていることもあるかもしれません。偉大な発明をするための脳を得るために、あえて日常生活能力はいりません、という選択をしたとか、そんなことも考えられませんか。
そう、「ADHD」にはクリエイティヴィティー=創造性というお役目があるのではないでしょうか。たとえ社会的に認知されないような発明でも本来発明に大きいも小さいもありません。すべての人に発明家としての種が植えられているのだとしたら。思いっきり発明の花を咲かせてしまいましょう。
脳の働き方のクセ = 脳の個性。個性を人と比べて「できる」「できない」という基準で判断する必要はまったくなし。
私は自分が「ADHD」傾向だったと気づけた時点で自己肯定意識が高まったことを感じました。「あ、そうなんだ、それが私なんだ」と。そう、その点も明らかな恩恵です、ありがたくちょうだいします。私たちに与えられているモノはすべて「Gift」ですもの。
一見、ネガティブに思えるモノでも必ず愛のメッセージが隠されています。そのメッセージに気づける能力は誰にでも備わっています。それがコミュニケーション能力です。コミュニケーション能力の備わっていない命はありません。どうやってコミョニケーションをとるのか、その違いを思う存分楽しむのが私たちに与えられた人生の喜びの一つではないでしょうか。
すべてはひとつ。
だけど、すべて別々の命。
違ってあたりまえ。
この世にまったく同じ命なんてないのです。だからこそ「お互いさま」
「ADHD」の一番のメッセージはそこなのかもしれませんね。